涼宮ハルヒの溜息                            谷川 流 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)誰《だれ》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)第四|防空壕《シェルター》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#改ページ] 【入力者による変更点】 ・テキスト化にあたり文中のルビのタグとして使用している二重山括弧を山括弧にしています (例)<<神人>>→〈神人〉 ・ルビに一部抜けの有る可能性あり ------------------------------------------------------- [#改ページ]  口絵・本文イラスト/いとうのいぢ  口絵・本文デザイン/中デザイン事務所 [#改ページ]  プロローグ  |悩《なや》みも何もないように見えるハルヒの|唯一《ゆいいつ》の悩みとは、一言で言うと「世界は|普通《ふつう》すぎる」ってことである。  では、こいつの考える「普通でないこと」てのは何なのかというと、これまた一言で言うとスーパーナチュラルであって、要するに「あたしの目の前に|幽霊《ゆうれい》の一つも現れないとは何事か」などと考えていやがるのだった。  ちなみに「幽霊」の部分は「宇宙人」とか「未来人」とか「超能力《ちょうのうりょく》者」とかでも|置換《ちかん》可能だが、言うまでもなくそんなもんが目の前をフラフラしているような世界はフィクションの世界であって現実にはなく、よってハルヒの悩みはこの世界で暮らす限り永遠に続くことになっている——はずだったのだが、実はそうとも言い切れないので俺も困り果てているところだ。  なぜなら俺には宇宙人と未来人と超能力者の知り合いがいるからである。 「重要な話があるんだが、聞いてくれ」 「なによ?」 「お前は宇宙人か未来人か超能力を使うような|奴《やつ》がいて欲しいんだよな?」 「そうだけど、それがどうしたのよ」 「つまりだ、このSOS団とやらの目的は、そういう連中を|捜《さが》すことにあるんだよな?」 「探し当てるだけじゃダメよ。|一緒《いっしょ》に遊ばないといけないの。見つけただけじゃ|画竜点晴《がりょうてんせい》を欠くというものだわ。あたしがなりたいのは|傍観《ぼうかん》者じゃなくて当事者だから」 「俺は永遠に傍観しておきたいがな……。いや、まあ、それはいいんだが、実は宇宙人も未来人も超能力者も、思いも寄らぬ身近にいるんだよ」 「へぇ。どこの|誰《だれ》? まさかとは思うけど、|有希《ゆき》やみくるちゃんや|古泉《こいずみ》くんのことじゃないでしょうね。それじゃちっとも『思いも寄らぬ』じゃないもの」 「えー……あー……。実はそう言おうと思ってたんだけどな」 「バカじゃないの? そんな都合のいい話があるわけないじゃないの」 「ま、普通に考えたらそうだよな」 「それで、誰が宇宙人だって?」 「聞いて喜べ、あの|長門《ながと》有希は宇宙人だ。正確に言うと、なんつったけな。統合ナントカ思念体……情報ナントカ思念体だったかな? まあそんな感じの宇宙人みたいな意識がどうかしたとかいうような存在の手先だ。そう、ヒューマノイドインターフェースだった。それだよ」 「ふーん。で? みくるちゃんは?」 「|朝比奈《あさひな》さんはだな、割と簡単だ。あの人は未来人だ。未来から来てるんだから未来人で合ってるだろ」 「何年後から来たのよ」 「それは知らん。教えてくれなかったんでな」 「ははあん、|解《わか》ったわ」 「解ってくれたか」 「ということは古泉くんは超能力者なのね? そう言うつもりなんでしょ」 「まさしく、そう言うつもりだった」 「なるほどね」  そう言ってハルヒは|眉毛《まゆげ》をびくびくさせながら、ゆっくりと息を吸い込んだ。それから、次のように|叫《さけ》んだ。 「ふざけんなっ!」  このように、ハルヒはせっかくの俺の真相激白を物の見事に信じなかった。無理もない。実際に三人が宇宙人モドキで未来人で超能力|野郎《やろう》であるという|証拠《しょうこ》を目の前に|突《つ》きつけられた俺だって信じられないくらいだから、アレやコレやを|目撃《もくげき》していないハルヒに信じろと言うのは無茶だったかもしれない。  しかしだ。|他《ほか》にどう言えばいいんだ? 俺の言ってるのは|掛《か》け値なしの|嘘偽《うそいつわ》りなしだぜ。これでも俺には嘘をついたところでどうにもならないときは正直にものを言う習性がある。  確かに俺だってどこかの親切な奴が「お前がよくご存じの誰それさんは実は……」なんて言い出したら、「ふざけんな」と言うところである。もしそいつが|真面目《まじめ》に言っているのだとしたら、そいつの脳にタチの悪い虫が|湧《わ》いているのか、あるいは毒性の電波を受信しているのかと逆にいたわってやりさえするかもしれん。どちらにせよ、あまり接点を持たないようにはするだろうが。  うむ? つまりその「そいつ」というのは、今の俺のことなのか? 「キョン、よーく聞きなさい」  ハルヒは眼球の表面積|一杯《いっぱい》に赤く燃える|炎《ほのお》を|浮《う》かべながら俺を|睨《にら》みつけた。 「宇宙人や未来人や超能力《ちょうのうりょく》者なんてのはね、すぐそこらへんに転がってなんかはいないのよ! 探して見つけて|捕《つか》まえて首つかんでぶらさげて|逃《に》げ出さないようにグルグル巻きにしないといけないくらいの希少価値があるものなのよ! 適当に選んできた団員が全員そんなのだなんて、あるわけないじゃないの!」  高説、まことにもっともである。ただし一人は除いてくれ。他の三人は確実に超自然現象のたまものだが、俺だけは地上でまともな進化を|遂《と》げてきた|普遍《ふへん》的|中庸《ちゅうよう》な人類の同類だ。それから、やっぱり団員を適当に選んでたのか、こいつは。  しかし、このアホ女はどうして変な部分で常識的なんだ? すんなり信じておけば、今より物事が簡単になっているだろうに。少なくとも、SOS団とかいう変態組織は解散できるに|違《ちが》いない。これはハルヒが宇宙人やら(以下略)などの不思議的存在を探すための|謎《なぞ》団体なんだからな。見つかっちまえば用無しだ。あとはハルヒ一人でそいつらと遊んでいればいい。俺はたまに混ぜてもらうくらいでちょうどいいな。クイズ番組で司会者の横で無意味に笑って立っているだけのアシスタント役で俺は満足するね。合いの手打ってるだけでギャラもらえるようなポジションに俺も早く立ちたいものだ。現在の俺は、どうやら動物バラエティに出てきて芸を強要される雑種犬みたいなもんだからな。  もっとも、ハルヒがすべての現象を自覚してしまえば、この世界全体がどうなるか知れたものではないのだが。  ちなみに|冒頭《ぼうとう》の会話は参加人数二人でおこなった第二回「SOS団、市内ぶらぶら歩きの巻(|仮称《かしょう》)」の日、駅前の|喫茶店《きっさてん》における俺とハルヒの会話である。俺は心おきなくハルヒの|払《はら》いであることを確信し、ストロングコーヒーを|啜《すす》りながら|余裕《よゆう》たっぷりに解説してやり、ハルヒはまるで信用せず、そりゃそうだ、やっぱりどう考えても信じるほうがどうかしていると言える。  俺は俺で|詳細《しょうさい》を説明するわけにもいかず、だいたいこういうもんは、細かいディテールを説明すればするほど頭を疑われると相場が決まっているからな。最初に長門のマンションに連れ込まれて長々と意味不明な銀河規模の電波話を聞かされた俺が言うんだから間違いない。 「あんたの|面白《おもしろ》くないアホジョークはもういいわ」  ハルヒは緑黄色野菜ジュースをストローで吸い上げきった後にそう言い、 「じゃあ、行くわよ。今日は二手に分かれるわけにもいかないから二人で|隅々《すみずみ》まで回るのよ。それからあたし|財布《さいふ》忘れてきたから、はい伝票」  俺が計八百三十円を表示している紙切れを見つめて抗議の声の内容を考えている隙に、ハルヒはテーブル上に置いてあった俺のコーヒーを一息で飲み干し、どんな文句も受け付けないといった感じの一睨みを俺にくれると、|大股《おおまた》で喫茶店を出て行って自動ドアの前で|腕《うで》組みをした。  それがもう半年前の出来事である。思えば、変なことばかりあったような気のする半年間だった。相変わらずSOS団の正式名称は「世界を大いに盛り上げるための|涼宮《すずみや》ハルヒの団」という寒気を|催《もよお》す団名のままで、この団の活動でいったい世界のどこがどう盛り上がったのかさっぱり不明。だいたい盛り上がってるのはハルヒただ一人じゃないのかと思うし、その存在意義と活動方針も例によって謎であって、宇宙人と遊んだり未来人を|拉致《らち》したり超能力者と|共闘《きょうとう》するというようなことを目的としているらしいのだが、今のところハルヒ的にはそれは成功していない。  なんせハルヒは宇宙人も未来人も超能力者ともまだ出会っていないと思い込んでるんだからしようがない。親切にもSOS団に所属する俺以外の団員たちの正体を教えてやったと言うのに事実を信じないのであるから、だからこれはもう俺の責任ではなかろう。  よってSOS団は目的を果たして存在意義を失い、円満に解散したりすることもなく、今日もまた学校サイド|非承認《ひしょうにん》組織として部室|棟《とう》の一角に存在し続けるのであった。  当然、俺|含《ふく》む団員計五人は文芸部の部室にパラサイトしたままだ。生徒会|執行部《しっこうぶ》はあらゆる意味でSOS団を無視することにしたらしく、俺の提出した創部|申請《しんせい》書をはね|除《の》けたかわりに部室の不法|占拠《せんきょ》にも何も言わなかった。本来|唯一《ゆいいつ》の文芸部員だった長門有希が何も言わないからかもしれないが、ハルヒに何か言うくらいなら見て見ぬふりをしたほうが全体的にマシであると判断したからだと俺は推理している。  |誰《だれ》しも「これは|踏《ふ》むと|爆発《ばくはつ》します」と|万国《ばんこく》共通文字でネオンを光らせている爆発物を踏みたくはあるまい。俺だってごめんだ。そうと知っていたら俺は入学したばかりの教室で、後ろの席で|仏頂面《ぶっちょうづら》している女に話しかけたりはしなかったってなもんだ。  うっかり時限|爆弾《ばくだん》の起動スイッチをいれてしまったばかりに、爆弾|抱《かか》えて右往左往するマヌケ役を押しつけられた|一般人《いっぱんじん》的高校生。それが今の俺の置かれた立場である。しかも「涼宮ハルヒ」と書いてあるこの爆弾には爆発予定時刻までのカウントダウンが表示されないのである。いつ何時|炸裂《さくれつ》するのか、どのくらいの|被害《ひがい》をもたらずのか、中に何が|詰《つ》まっているのか、それ以前にこれは本当に爆弾なのか、誰かが爆弾と言ってるだけのガラクタなのか、それすら|解《わか》らないのだ。  そこらを探しても危険物専用のダストシュートを発見できるわけもなく、それはつまり、この人的危険物はセメントでも|塗《ぬ》りつけてあったかのように俺の手を|離《はな》れないということでもあった。  ほんと、どこに捨てたらいいんだろうな、これ。 [#改ページ]  第一章  一般論として、学校にはイベントが付き物だ。そう言えぱ俺の高校でも先月は体育祭が|実施《じっし》された。競技の合間のクラブ|対抗《たいこう》リレーなるエキシビションマッチにSOS団も参加するなどとハルヒが言い出したときにはまさかと思ったが、そのまさか、本当に我がSOS団のメンバーでバトンリレーして陸上部をぶっちぎりラグビー部を|蹴散《けち》らしアンカーハルヒが二着に約十三馬身差でゴールテープを切ってしまうとは思いもしなかった。おかげで以前から|囁《ささや》かれていた我々(俺以外)の変態性が、まるで誰かが授業中にイタズラで押した非常ベル並みに学内に鳴り|響《ひぴ》くことになっちまったのには頭が痛む。言い出しっぺのハルヒに最大の責任が課せられるのは言うまでもないが、第二走者の長門にも問題があるよな。よもや|瞬間《しゅんかん》移動としか思えない走りを見せるとは、さすがの俺も予測しなかった。前もって言ってくれよ、長門。  いったいどんな|魔法《まほう》を使ったのかと|訊《き》いた俺に、この笑わない宇宙人製の有機アンドロイドは、「エネルギー準位」とか「量子|飛躍《ひやく》」とかいう単語を使って説明しようとしてくれたが、すでに理系の道をあきらめて文系へと進賂を決めていた俺にはまったく関係なく、理解もできず、したくもなかった。  そんな|狂乱《きょうらん》の体育祭が終わって、やっと月が変わったと思ったら今度は文化祭なるものが待ち受けていた。現在、このチンケな県立高校はその準備に追われている。追われているのは教師|陣《じん》と実行委員会とこんな時くらいしか|腕《うで》の|振《ふ》るいようもない文化部くらいかもしれないけどな。  もちろん部活動以前に、部活として|認定《にんてい》されていないSOS団が何らかの創造的な作業に追われるいわれはない。なんなら近所の|野良猫《のらねこ》を|捕《つか》まえて|檻《おり》にでも入れて「字宙|星獣《せいじゅう》」とかいう看板を付けた上に見世物小屋を営業しても俺は構わないが、シャレの解らない客は構うだろうし、解る|奴《やつ》でもせせら笑う。それによく考えるまでもなく出し物を考える必要性などどこにもない。やる気もない。現実的な高校の文化祭なんてものは実に現実的だ。|嘘《うそ》だと思うなら、学祭やってるとこならどこでもいい、ちょろりと|覗《のぞ》くがいい。それが|数多《あまた》ある学校行事の一つでしかないことが|如実《にょじつ》に理解できるだろう。  ところで俺とハルヒの所属クラス、一年五組が何をするかというと、アンケート発表とかいう適当|企画《きかく》でお茶を|濁《にご》すことになっている。春先に朝倉|涼子《あさくらりょうこ》がどっかに行っちまって以来、このクラスでリーダーシップをとろうなどという頭のおかしい高校生は存在しない。この企画モノだって、気詰まりな|沈黙《ちんもく》が延々続いていたLHRの時間に担任|岡部《おかべ》教師がムリヤリひねり出して来たアイデアで、反対賛成両方の意見も|皆無《かいむ》なまま、時間切れで決まった。何をアンケートして発表するのか、そんなことをして誰が楽しいのか、たぶん誰も楽しんだりはしないだろうが、まあそんなもんだろう。がんばってやってくれ。  というわけで、俺はアパシーシンドローム並みの無気力さで、今日もまた部室へのこのこと向かうのだ。なぜ向かうのか。その答えは俺の横で|威勢《いせい》よく歩いている女がこんなことを|喋《しゃべ》っているからにほかならない。 「アンケート発表なんてバカみたい」  そいつは|間違《まちが》って|納豆《なっとう》にソースをかけてしまったような顔でそう言った。 「そんなことをして何が楽しいのかしら。あたしには全然理解できないわ!」  だったら何か意見を言えばよかったじゃないか。お|通夜《つや》みたいな教室で困り切った岡部|教諭《きょうゆ》の顔を、お前も見てただろうに。 「いいのよ。どうせクラスでやることなんかに参加するつもりはないから。あんな連中と何かやったって、ちっとも楽しくないに決まってるのよ」  その割には、体育祭ではクラスの総合優勝に|貢献《こうけん》していたような気がするけどな。短・中・長|距離《きょり》走とスウェーデンリレーの最終走者で登場し、そのすべてで優勝していたのはお前だと思ったが、ありゃ別人か。 「それとこれとは話が別よ」  だからどこが違うんだよ。 「文化祭よ文化祭。違う言葉で言えば学園祭。公立の学校はあんまり学園と言わないような気がするけど、それはいいわ。文化祭と言えば、一年間で最も重要なスーパーイベントじゃないの!」  そうなのか? 「そうよ!」と、そいつは力強くうなずいた。そして宣告した。俺に。次のようなことを。 「あたしたちSOS団は、もっと|面白《おもしろ》いことをするわよ!」  そう言った涼宮ハルヒの顔は、第二次ポエニ戦争でアルプス|越《ご》えを決意したばかりのハンニバルのような、迷いのない晴れやかな輝《かがや》きを放っていた。  放っていただけだったが。  ハルヒの言う「面白いこと」というものが俺にとって|愉快《ゆかい》な結果を生んだことは、この半年で一度もない。それは|大概《たいがい》において|疲労《ひろう》するだけで終わる。少なくとも俺と朝比奈さんは疲労するのだが、それだけまともな人種であるということだ。俺の見る限り、ハルヒが全然まともでないのは世界の常識だとして、古泉も|普通《ふつう》の人間的な精神をしているとは思えず、長門に至っては人間ですらない。  そんな奴らに混じってしまって、いったい俺はいかにしてこの異常の|極致《きょくち》のような高校生活を切り|抜《ぬ》けていけばいいんだろう。半年前に俺がしなければならなかったようなことだけは、もうゴメンだ。あんなアホみたいな|軽挙妄動《けいきょもうどう》は二度としたくないね。思い出しただけで——|誰《だれ》か|銃《じゅう》を貸してくれ——自分のこめかみを|撃《う》ち抜きたくなる。あの時の|記憶《きおく》が納まっている|脳細胞《のうさいぼう》を|抽出《ちゅうしゅつ》して燃やしたいくらいだ。ハルヒはどう考えているか知らんけど。  そうやって過去の記憶をふっとばす方法を考えていたせいか、横のうるさい女が何か言っているのを聞き|逃《のが》した。 「ちょっとキョン、聞いてるの?」 「いや聞いてなかったが、それがどうした」 「文化祭よ、文化祭。あんたももうちょっとテンションを高くしなさいよ。高校一年の文化祭は年に一度しかないのよ」 「そりゃそうだが、べつだん|大騒《おおさわ》ぎするもんでもないだろ」 「騒ぐべきものよ。せっかくのお祭りじゃないの、騒がないと話にならないわ。あたしの知ってる学園祭ってのはたいていそうよ」 「お前の中学はそんなに大層なことをしていたのか」 「全然。ちっとも面白くなかった。だから高校の文化祭はもっと面白くないと困るのよ」 「どういう感じだったらお前は面白いと思うんだ」 「お化け|屋敷《やしき》に本物のお化けがいるとか、いつの間にか階段の数が増えてるとか、学校の七不思議が十三不思議になるとか、校長の頭が三倍アフロになるとか、校舎が変形して海から上がってきた|怪獣《かいじゅう》と戦うとか、秋なのに季語が梅だとか、そんなんよ」  さて、俺は|途中《とちゅう》から聞くのをやめていたので階段以降の演説が何だったのか知らないが、よかったら教えてくれ。 「……まあ、いいわ。部室に着いてからじっくり話してあげるから」  |機嫌《きげん》を|損《そこ》ねてむっつりと|黙《だま》り込んだハルヒは、すっかたすっかたと歩を刻み、あっというまに部室の|扉《とびら》を前にした。その扉には|貼《は》りつけられた「文芸部」のプレートの下に「withSOS団」とぶっきらぼうな字体で書かれた紙切れが|画鋲《がびょう》で留めてある。「もう半年もここにいるんだもの。この部屋はあたしたちの物と言っても誰も文句はないわよね」という身勝手な|占有権《せんゆうけん》を主張してプレート自体を貼り|替《か》えようとしたのはハルヒで、止めたのは俺だ。人間、程度ある|慎《つつし》み深さが|肝心《かんじん》なのさ。  ハルヒはノックもせずに扉を開き、俺は部屋の中に|妖精《ようせい》さんが立っているのを見た。彼女は俺と目が合うなり、|百合《ゆり》の花の|化身《けしん》と見まがうばかりの|微笑《ほほえ》みを|浮《う》かべ、 「あ……。こんにちは」  メイド|衣装《いしょう》に身を包み、|箒《ほうき》を持って|掃《は》き|掃除《そうじ》していたのはSOS団の|誇《ほこ》るお茶くみ係、朝比奈みくるさんだった。彼女はいつも通り、部室に住む妖精のような微笑みで俺を|迎《むか》えてくれた。本当に妖精か何かかもしれない。未来人と言うよりはそっちのほうが似つかわしいもんな。  団創設時、「マスコットキャラが必要だと思って」という意味不明な理由を口走るハルヒによって連れてこられた朝比奈さんは、これまたハルヒによって|無理矢理《むりやり》メイド服に着せ替えられ、以来そのままSOS団付きのメイドさんとして毎日放課後ここで|完璧《かんぺき》なメイドさんになりきっていた。頭のネジがオカシイ人だからではなく、こちらが|涙《なみだ》ぐみそうになるくらい素直《すなお》な人なのだ。  バニーやらナースやらチアガールにもなってくれた朝比奈さんだが、やっぱりメイドさん衣装が一番よいね。はっきり言えぱ、こんな恰好《かっこう》には何一つ意味もなければ|伏線《ふくせん》にもなってないと思うのでここはそういうもんだと思っておいて欲しい。ついでに断っておくが、ハルヒのやることに意味があったほうが少ない。  しかし何かの原因になっていることはけっこうある。それで俺たちはよく困ってるんだからな。どうせなら委細全部いっさい無意味であったほうがどれだけかマシなんだけども。  そんなハルヒがおこなった数少ないマシなことが——というかこれしかないのだが——、朝比奈さんメイドバージョンだった。あまりにも似合っていて|眩暈《めまい》を覚えるほどだ。こればっかりはハルヒの思いつきを評価せざるを得ないね。どこでいくらで買ってきたのかは知らないが、ハルヒの衣装センスはなかなかのものだ。もっとも、朝比奈さんなら何を着ても|極上《ごくじょう》のモデルになるだろう。中でもメイドは俺のお気に入りで、つまるところ俺の目を喜ばせるという意味で有意義なのさ。 「すぐにお茶|淹《い》れますね」  |可愛《かわい》らしく|囁《ささや》きかけた朝比奈さんは、箒を掃除用具入れにしまうと、ちょこまかと|戸棚《とだな》に|駆《か》け寄って各自専用の湯飲みを取り出し始めた。  |脇腹《わきばら》を|硬《かた》い物が|突《つ》いていた、と思ったら、ハルヒが|肘《ひじ》打ちを|喰《く》らわせていた。 「目が糸みたいになってるわよ」  朝比奈さんの愛らしい仕草に感激するあまり、自然と目を細めていたらしい。誰だってそうなるさ。|可憐《かれん》に|優雅《ゆうが》に|恥《は》じらう朝比奈さんを前にしたらな。  ハルヒは「団長」と書かれた|三角錐《さんかくすい》の|載《の》った机の上から「団長」と書かれた|腕章《わんしょう》を取り上げて装着し、パイプ|椅子《いす》にふんぞり返ってから、ぐるりと部室内を|睥睨《へいげい》した。  もう一人の団員が、テーブルの|隅《すみ》っこで分厚い|書籍《しょせき》を読んでいる。 「…………」  ただひたすら|黙々《もくもく》と顔も上げずにじっとページを見つめているのは、ハルヒにしてみれば「部室をぶんどったらオマケでついてきた」みたいな文芸部の一年生、長門有希だった。  大気中の|窒素《ちっそ》のように存在感が|希薄《きはく》なくせに、メンツの中では最も|奇妙《きみょう》キテレツなプロフィールを持つ同級生である。設定のキテレツさ加減ではハルヒ以上とも言える。ハルヒは最初から最後までワケ|解《わか》らんが、長門は中途|半端《はんぱ》に解るだけ余計な混乱を|誘《さそ》うのだ。長門の言うことを信じるならば、この無口・無表情・無感情・無感動のないない四拍子《よんびょうし》がそろい|踏《ぶ》みしたショートカットの|小柄《こがら》な女子生徒は、人間ではなく宇宙人によって製造された対人間用コミュニケートマシンなのである。なんじゃそりゃ、と言われても困る。本人がそう主張しているのだからツッコミようもないし、どうやら本当にそうらしい。ただしハルヒには秘密だ。今んとこ、ハルヒは長門のことを「ちょっと変わっている読書好き」としか思っていないからな。  客観的に考えても「ちょっと」ではないだろうと思うのだが。 「古泉くんは?」  ハルヒは朝比奈さんに|鋭《するど》い視線を注いだ。朝比奈さんは|一瞬《いっしゅん》びくうっとなってから、 「さ、さあ。まだです。|遅《おそ》いですね……」  |茶筒《ちやづつ》から|慎重《しんちょう》な手つきで|急須《きゅうす》にお茶っ葉を入れている。俺は部室の隅のハンガーラックを見るともなしに見物した。様々な衣装が演劇部の楽屋みたいな感じで|掛《か》かっている。左から順に、ナース服、バニー、夏用メイド服、チアリーダー、|浴衣《ゆかた》、白衣、|豹《ひょう》の毛皮、カエルの着ぐるみ、何だかよく解らないヒラヒラでスケスケの服、エトセトラ、etc。  どれもこれも、この半年間で朝比奈さんの|肌《はだ》の|温《ぬく》もりを知った衣類の数々である。はっきりさせておこう。それを朝比奈さんに着せることに何の意味もない。ただハルヒが自分の満足度を深めただけだ。子供の|頃《ころ》のトラウマかなんかのせいかもな。着せ|替《か》え人形を買ってもらえなかったとかそんな感じの。それでこの|歳《とし》になって朝比奈さんで遊んでいるってわけだ。おかげで朝比奈さんのトラウマは現在進行形で進み、そして俺は眼福を得て幸福になるという仕組みである。まあ、トータルで言えば幸せになった人間のほうが多いような気がするので、俺も何も言わないことにしている。 「みくるちゃん、お茶」 「は、はいっ。ただいまっ」  朝比奈さんは|慌《あわ》てた動作で「ハルヒ」とマジックで署名してある湯飲みに緑茶を|注《つ》ぐと、お|盆《ぼん》に載せてしずしずと運んだ。  受け取ったハルヒはズズズと熱い茶を|啜《すす》ってから、|弟子《でし》の|不手際《ふてぎわ》を責める|華道《かどう》の|師匠《ししょう》のような声を出した。 「みくるちゃん、前にも言ったと思うけど、覚えてないの?」 「え?」  朝比奈さんは思いっきり不安そうに盆を|抱《だ》きしめて、 「なんでしたっけ?」  昨日食べた|麻《あさ》の実の味を思い出そうとしている桜文鳥のように首を|傾《かし》げる。  ハルヒは湯飲みを机に置くと、 「お茶持ってくるときは三回に一回くらいの割合でコケてひっくり返しなさい! ちっともドジッ|娘《こ》メイドじゃないじゃないの!」 「え、あ……。すみません」  細い|肩《かた》をすくませる朝比奈さん。そんな取り決めをしていたとは俺には初耳だ。こいつは何か、メイドとはドジでしかるべきだと考えているのか? 「ちょうどいいわ、みくるちゃん。キョンで練習してみなさい。湯飲みが頭の上で逆さになるようにね」 「ええっ!?」  そう言って朝比奈さんは俺を見る。俺はハルヒの頭に穴を|空《あ》けて中身を入れ替えてやろうと電動ドリルを探したが、残念ながら見つからず、代わりにため息をついた。 「朝比奈さん、ハルヒの|冗談《じょうだん》は頭のおかしい|奴《やつ》しか笑えないんですよ」  そろそろ学習してください、と後に続けたかったのだがやめておく。  ハルヒは目を|吊《つ》り上げて、 「そこのバカ、あたしは冗談なんか言ってないわよ! いつも本気なんだからね」  だとしたら余計に問題だな。一度CTスキャンでも|撮《と》ってもらえばいい。それにお前にバカと言われると非常にムカつくのは俺がジョークのセンスに欠けているからかな。 「いいわ。あたしが見本を見せてあげるから、次はみくるちゃんね」  パイプ|椅子《いす》から飛び上がったハルヒは、あうあう言ってる朝比奈さんの手から盆をひったくって急須をかかげ、俺の名前入り湯飲みにどばどばとお茶を注ぎ始めた。  |呆《あき》れて見ているうちに、ハルヒは|盛大《せいだい》にお茶をこぼしながら湯飲みを盆に置いて、俺の立ち位置を|捕捉《ほそく》、うなずいて歩き出そうとしたところで俺は横から湯飲みを|奪《うば》い取った。 「ちょっと! 邪魔《じゃま》しないでよ!」  邪魔も何も、熱湯を頭からぶっかけられようとしているのに|黙《だま》って|突《つ》っ立っている奴がいたらそいつはよほどのお|人好《ひとよ》しか保険金|詐欺《さぎ》|師《し》だ。  俺は立ったままハルヒの|淹《い》れた緑茶を飲んで、どうして同じ茶葉なのに朝比奈さんの注いでくれたものとこうも味が|違《ちが》うのかと考えた。考えるまでもない。愛情という名のスパイスの差だな。朝比奈さんが野に|咲《さ》く白バラなんだとしたら、こいつは花を咲かせずトゲしかない|特殊《とくしゅ》なバラだ。当然、実を付けることもないだろう。  ハルヒは、黙って湯飲みを|傾《かたむ》ける俺を|咎《とが》めるような目で見ていたが、 「ふん」  |髪《かみ》をふいっとなびかせて、団長机に|戻《もど》った。ズズズ。|沸騰《ふつとう》させた苦い飲み薬を飲んでいるような表情だ。  朝比奈さんはホッとしたように給仕を再開し、長門のマイ湯飲みにお茶を淹れて読書少女の前に置いてやっている。  長門はピクリともせずに、ただ|黙々《もくもく》とハードカバーに|挑《いど》んでいた。少しは有り難がれよ。|谷《たに》口《ぐち》なら飲み干すのに三日くらいはかけるぜ。 「…………」  パラリとページを繰るだけで、長門は顔も上げやしない。それもまたいつもの調子だから、朝比奈さんも気を|損《そこ》なうことなくメイド活動、自分用の湯飲みをスタンバイ。  そこに、第五の団員が来なくても|誰《だれ》も気にしないのに来やがった。 「すいません。|遅《おく》れました。ホームルームが長引きましてね」  いかにも|人畜《じんちく》無害そうなスマイル光線を放ちながらドアを開けたのは、ハルヒいわく|謎《なぞ》の転校生、古泉|一樹《いつき》だった。俺に|恋人《こいびと》がいたとしても友人として|紹介《しょうかい》する気分になれないツラに|微《び》|笑《しょう》を浮かべ、 「僕が最後みたいですね。遅れたせいで会議が始まらなかったのだとしたら謝ります。それとも何か|奢《おご》ったほうがいいですか?」  会議? なんだそれは。俺はそんなもんをするとは聞いてないぞ。 「言うの忘れてたわ」  机に|頬杖《ほおづえ》をついたハルヒが言う。 「昼のうちにみんなには知らせといたんだけどね。あんたにはいつでも言えると思って」  どうして|他《ほか》の教室に出向くヒマがあるのに、同じ教室の前の席にいる俺に伝える手間を省くんだ。 「別にいいじゃないの。どうせ同じ事だし。問題はいつ何を聞いたかじゃなくて、いま何をするかなのよ」  言葉だけは立派のような気がしたが、ハルヒが何をしようとも俺の気分がすぐれなくなるのは周知の事実と言えよう。 「と言うより、これから何をするのか考えないといけないのよ!」  現在形なのか未来形なのかはっきりしてくれ。それから主語が|一人称《いちにんしょう》単数なのか、複数形なのかもついでにな。 「もちろん、あたしたち全員よ。これはSOS団の行事だから」  行事とは? 「さっきも言ったじゃないの。この時期で行事と言えば文化祭以外に何もないわ!」  それなら、団でなくて学校全体の行事だ。そんなに文化祭をフィーチャーしたいのなら実行委員に立候補すればよかったのによ。くだらん雑用が目白押しに|詰《つ》まっているだろうさ。 「それじゃ意味ないのよ。やっぱりあたしたちはSOS団らしい活動をしないとね。せっかくここまで育て上げた団なのよ! 校内に知らない者はいないまでの|超《ちょう》注目団体なのよ? |解《わか》ってんの?」  SOS団らしい活動って何だ? 俺はこの半年間におこなったSOS団的活動を思い起こして軽くブルーになった。  お前は単なる思いつきを口走るだけだから楽だろうが、俺や朝比奈さんの苦労はどうなるんだよ。古泉はやけに|如才《じょさい》なく笑っているだけだし、長門はプレストの役にはまったく立たないし、少しは|一般人《いっぱんじん》たる俺のことも考えて欲しいもんだ。ああ、朝比奈さんもあまり一般的ではないかもしれないが|可愛《かわい》いからオールオッケーだ。そこにいてくれるだけで目の肥やしとなり、俺の|荒《すさ》んだ精神を|癒《いや》してくれるからな。 「期待に|応《こた》えるくらいのことはしないといけないわね」  ハルヒは難しげな顔つきで|呟《つぶや》いているが、いったいどこの誰がSOS団のやることに期待を持っているのか、それこそアンケートでも採るべきだろう。育て上げたという割にはSOS団は|未《いま》だに同好会以下の存在から|昇格《しょうかく》していないし部員も増えていない。増えたところでややこしいことになるだけだから、いなくていいのだが、これではいつまで|経《た》っても|脱輪《だつりん》したハルヒ特急は線路の|脇《わき》をどこまでも|横滑《よこすべ》りしていくに|違《ちが》いない。そして乗客は俺たち五人しかいないってわけだ。せめて俺の代わりを務めてくれるスケープゴートが欲しいところだね。何なら時給を|払《はら》ってもいいぞ。百円くらいなら。  一|杯《ぱい》目を三十秒でカラにしたハルヒは、朝比奈さんに二杯目を要求しつつ、 「みくるちゃんとこは? 何すんの?」 「えー……と。クラスでですか? 焼きそば|喫茶《きっさ》を……」 「みくるちゃんはウェイトレスね、きっと」  朝比奈さんは目を丸くして、 「どうしてわかるんですか? あたしはお料理係のほうがしたかったんですけど、なんかみんなにそう言われちゃって……」  ハルヒはまた考える目つきをした。例によってロクでもないことを考えているときの目の色をしている。その目がハンガーラックのほうを向いた。そういえば朝比奈さんにまだウェイトレスの|衣装《いしょう》を着せていないことを思い出したような目つきだった。  ハルヒは|思慮《しりょ》深そうな顔をして、 「古泉くんのクラスは?」  古泉はひょいと|肩《かた》をすくめた。 「|舞台《ぶたい》劇をするまでは決まったのですが、オリジナルを|演《や》るか古典にするかでクラスの意見が二分されてましてね。もう文化祭まで時間がないというのにいまだに|揉《も》めています。激論を戦わせていたのですけど、決定にはまだかかりそうです」  それはまた、活気のあるクラスでいいことだな。|面倒《めんどう》そうだが。 「ふーん」  |浮遊《ふゆう》するハルヒの視線が、まだ一言も発していない残りの団員へと向けられる。 「有希は?」  読書好きの宇宙人モドキは、雨の気配を感じ取ったプレーリードッグのように顔を上げ、 「|占《うらな》い」  相も変わらずの|平坦《へいたん》な声で答えた。 「占い?」  思わず|訊《き》き返したのは俺だ。 「そう」  長門は|皮膚《ひふ》呼吸すらしていないような無表情でうなずく。 「お前が占うのか?」 「そう」  長門が占いだって? 予言の間違いじゃないのか。俺は黒いトンガリ|帽子《ぼうし》とマントをまとった長門が|水晶《すいしょう》球に手をかざしている様子を想像し、カップル客二人を前にして「あなたたちは五十八日三時間五分後に別れることになる」と真正直に語っている風景を|幻視《げんし》した。  少しは|優《やさ》しい|嘘《うそ》も混ぜといてくれよ。ま、長門に未来予知が出来るかどうかはもう一つ確かではないが。  朝比奈さんが|模擬《もぎ》店で、古泉が演劇で、長門んとこが占い大会か。どこも俺たちのクラスの無気力アンケートよりは何段階かは楽しそうだな。そうだ、こういうのはどうだろう。全部あわせて観劇占いアンケート喫茶をやるというのは。 「アホなこと言ってないで、さくっと会議を始めるわよ」  ハルヒは俺の貴重な意見を|一蹴《いっしゅう》すると、ホワイトボードに歩み寄る。ラジオのアンテナみたいな指し棒を|伸《の》ばし、バンバンとボードを|叩《たた》いた。  何も書いていないのだが、どこを見ればいいんだ。 「これから書くのよ。みくるちゃん、あんた書記なんだからちゃんと言うとおりに書きなさい」  いつから朝比奈さんが書記になったのか俺は知らなかった。|誰《だれ》も知らないだろう。たった今、ハルヒが決めたらしいから。  お茶くみ|兼《けん》書記となった朝比奈さんが、水性フェルトペンを持ってホワイトボードの脇に|控《ひか》えてハルヒの横顔を|上目遣《うわめづか》い。  そしてハルヒは、いきなり勝ち|誇《ほこ》った声で言った。 「あたしたちSOS団は、映画の上映会をおこないます!」  いったいハルヒの頭の内部でどのような|変換《へんかん》がおこなわれたのか|解《わか》らない。それはいいとしよう。いつものことだ。だが、これでは会議ではなくてお前一人の所信表明演説じゃねえか。 「いつものことでしょう」  古泉が俺に|囁《ささや》きかける。その表情は落書きしたくなるほどのグッドテイストスマイルだ。|端整《たんせい》な|唇《くちびる》を優しげに|歪《ゆが》めたまま古泉は、 「涼宮さんは最初から何をするか決めておいたようですね。話し合いの余地はなさそうです。はて、あなたが何か余計なことでも言ったのではないのですか?」  映画にまつわるあらゆるトークと今日は|無縁《むえん》だったはずだがな。昨日の深夜にローバジェットのC級映画でも|観《み》てあまりのくだらなさにやるせない気分になったんじゃねえの。  しかしハルヒは、自分の演説が|聴衆《ちょうしゅう》を残らず感動させたと信じて疑わない|上《じょう》|機《き》|嫌《げん》さで、 「つねづね疑問に思っていることがあるのよね」  俺はお前の頭の中身が疑問だ。 「テレビドラマとかで最終回に人が死ぬのってよくあるけど、あれってすんごく不自然じゃない? なんでそうタイミング良く死ぬわけ? おかしいわ。だからあたしは最後のほうで誰かが死んで終わりになるヤツが|大《だい》|嫌《きら》いなのよ。あたしならそんな映画は|撮《と》らないわ!」  映画かドラマかどっちなんだ。 「映画作るって言ったでしょ。|古《こ》|墳《ふん》時代の埴輪でももっとちゃんとした耳穴持ってるわよ。あたしの言葉は一言一句|間《ま》|違《ちが》えずに|記《き》|憶《おく》しておきなさい」  お前のイカレポンチセリフ集を暗記するくらいなら、近所を走ってる私鉄沿線の駅名を|端《はし》から覚えたほうが|遥《はる》かに有意義だよ。  朝比奈さんが元書道部とは思えない丸まっちい字で「映画上映」と書くのを見て、満足げにうなずいていたハルヒは、 「というわけよ。解った?」  |梅雨《つゆ》明けを確信した天気予報士のような晴れやかさで言いやがった。 「何が、というわけ、なんだ?」  俺は訊く。当然の疑問だろう。映画を上映することしか解らんぞ。配給元はどこにする気なんだ? ブエナビスタインターナショナルに知り合いでもいるのか?  しかしハルヒは|無闇《むやみ》に黒い|瞳《ひとみ》を|爛々《らんらん》と|輝《かがや》かせ、 「キョン、あんたも頭の足りない|奴《やつ》ね。あたしたちで映画を撮るのよ。そんで、それを文化祭で上映するの。プレゼンテッド・バイ・SOS団のクレジット入りでね!」 「いつからここは映画研究部になったんだ?」 「何言ってんのよ。ここは永遠にSOS団よ。映研になんかなった覚えはないわ」  映研の奴が聞いたら気を悪くするような言葉を|吐《は》いて、 「これはもう決まったことなの。一事不再理なのよ! 司法取引には応じないから!」  SOS団の|陪審《ばいしん》員団長|殿《どの》がそう言うのなら二度と意見は|覆《くつがえ》らないのだろうな。いったいどこのどいつだ、ハルヒを長のつく役職に押し上げたのは……と考えかけ、そういやこいつは勝手になっちまったんだった。どこの世界でも声のデカイ奴とシキリ|野《や》|郎《ろう》がいつの間にか|偉《えら》くなってしまっているのは本当のことだからな。おかげで俺や朝比奈さんのような流されやすい善人が|迷《めい》|惑《わく》を|被《こうむ》るってのが、|冷《れい》|酷《こく》非情な人類社会の|矛盾《むじゅん》点であり真理でもある。  俺が理想的な社会制度とは何かという深遠な命題について考えていると、 「なるほど」  古泉が何もかも解ったような声で言った。俺とハルヒに等分に|微笑《ほほえ》みかけ、 「よく解りました」  おい古泉、ハルヒの言いっぱなしボムをまともに受け止めるなよ。お前には自分の意見というものがないのか?  古泉は|前髪《まえがみ》をちょいと指で|弾《はじ》いて、 「つまり我々で自主製作映画を|撮影《さつえい》し、客を集めて上映しようと、そういうことですね」 「そういうことよ!」  ハルヒがボードにアンテナを|叩《たた》きつけ、朝比奈さんがびくんとすくむ。それでも朝比奈さんは勇気を|振《ふ》り|絞《しぼ》るように、 「でも……、どうして映画にしたんですか?」 「昨日の夜中ね、ちょっとあたしは|寝付《ねつ》きが悪かったのよ」  ハルヒはアンテナを顔の前でワイパーのように動かしながら、 「それでテレビ|点《つ》けたら変な映画やってたの。観る気もなかったけど、することもないから観てたのね」  やっぱりか。 「それがもう、すんごいクダラナイ映画だったわ。|監《かん》|督《とく》ん|家《ち》に国際電話でイタ電しようかと思ったくらいよ。それでこう思ったの」  指し棒の先が朝比奈さんの小作りな顔に|突《つ》きつけられた。 「こんなんだったら、あたしのほうがもっとマシなモノを撮れるわ!」  自信満々に胸を反らすハルヒである。 「だからやってやろうじゃないと思ったわけ。何か文句あんの?」  朝比奈さんは|脅《おび》えたようにふるふると首を振る。たとえ文句があったとしても朝比奈さんは口にしないだろうし、古泉はイエスマンだし、長門はただでさえ何も言わないので、こういう時に何かを話さなけれぱならないのは必然的にいつも俺になる。 「お前が一人で映画監督を目指そうがプロデューサーを志そうが、そんなことはどうでもいい。お前の進路だ、好きにすればいいだろうさ。で、俺たちの希望や意思も好きにしていいんだろうな?」 「何のこと?」  と、ハルヒはアヒル口。俺は|辛抱強《しんぼうづよ》く言い聞かせる。 「お前は映画を作りたいと言う。俺たちはまだ何も言っていない。もし俺たちがそんなのイヤだと言ったらどうするんだ? 監督だけじゃ映画にならないぜ」 「安心して。|脚本《きゃくほん》ならほとんど考えてあるから」 「いや、俺の言いたいのはそうではなくてだな……」 「何も気にすることないわ。あんたはいつも通り、あたしについてくればいいの。心配の必要はまったくなしよ」  心配だ。 「段取りは任しといて。全部あたしがやるから」  なおのこと心配だ。 「ごちゃごちゃうるさい奴ね。やるって言ったらやるのよ。|狙《ねら》うのは文化祭イベントベスト投票一位よ! そうすれば物わかりの悪い生徒会もSOS団をクラブとして認めるかもしれない——いいえ! 絶対認めさせるのよ。それにはまず世論を味方につけないといけないわ!」  世諭と投票結果が正比例するとは限らないぜ。  俺は|抵抗《ていこう》を試みる。 「制作費はどうするんだ?」 「予算ならあるわよ」  どこに? 生徒会がこのアングラ組織のくせに大っぴらに|公称《こうしょう》している団などに予算を配分してくれるとは思えないが。 「文芸部にくれたぶんがあるのよね」 「だったらそれは文芸部の予算だろうが。お前が使っていいもんじゃねえ」 「だって有希はいいって言ったもの」  やれやれだ。俺は長門の顔を見る。長門はじわじわという動きで俺を見上げると、何も言わないまま、じわじわと読書に|戻《もど》った。  本当に文芸部への入部希望者は|他《ほか》にいないんだろうな。|訊《き》くつもりはないが、あらかじめ長門が手を回して|廃部《はいぶ》寸前に追い込んでたとしても不思議はない。こいつはハルヒがやってくるのを最初から知っていたらしいし。もし文芸部に入ろうと心を決めていた新入生がいたなら気の毒なことだ。ぜひハルヒの手から本来の文芸部を|奪《うば》い返すようがんばってもらいたい。  そんな俺の心も知らず、ハルヒはアンテナを振り回しながら、 「みんな|解《わか》ったわね! クラスの出し物よりこっち優先よ! 反対意見があるなら、文化祭が終わった後に聞くわ。いい? 監督の命令は絶対なのよ!」  そう|叫《さけ》んでいるハルヒは、真夏に|氷塊《ひょうかい》をプレゼントされた動物園のシロクマのように他の物など目に入らないようだった。  団長の次は監督か。最後には何になるつもりなんだ。……神様とか言わないでくれよ。 「じゃあ、今日はこれで終わり! あたしはキャスティングとかスポンサー関係を色々考えないといけないからね。プロデューサーには仕事がいっぱいあるのよ」  プロデューサーってのが何をする役職なのかはよく知らないが、それはともかくこいつは何をするつもりなんだろう。スポンサー?  ぱたん。  |乾《かわ》いた音がして|振《ふ》り返ると、長門が本を閉じたところだった。今やその音はSOS団本日の営業|終了《しゅうりょう》の合図ともなっている。  |詳《くわ》しい話は明日ね、と言い残して、ハルヒは|缶詰《かんづめ》を開ける音を耳にした|猫《ねこ》のように走り去った。あまり詳しく聞きたい話にはなりそうもないが。 「よかったじゃないですか」  こういうことを言い出すのは決まって古泉である。 「宇宙|怪獣《かいじゅう》を|捕《つか》まえて見世物小屋をするとか、UFOを|撃墜《げきつい》して内部構造を展覧するとか、その手の物でなくて僕は安心しています」  どっかで聞いたようなセリフだな。  この|微笑《ほほえ》み|超能力《ちょうのうりょく》者は、ふふっと口を開けずに笑い、 「それに僕は涼宮さんがどんな映画を作るつもりなのか興味があります。なんとなく、想像はつくような気もするのですけどね」  湯飲みを片づける朝比奈さんを横目で見ながら古泉は、 「楽しい文化祭になりそうです。興味深いことですね」  つられて俺も朝比奈さんに視線を向ける。ぴょこぴょこと|揺《ゆ》れるカチューシャを|眺《なが》めていると、 「あ、な、なんですかぁ?」  |野郎《やろう》二人の目が自分に集中しているのに気づいた朝比奈さんは、手を止めて|頬《ほお》を赤くした。  俺は胸中で|呟《つぶや》く。  いえ、何でもありません。次にハルヒがどんな|衣装《いしょう》を持ってくるのか、それを考えていただけですよ。  帰り|支度《じたく》を終えた——と言っても本を|鞄《かばん》にしまうだけだったが——長門が音もなく立ち上がり、開きっぱなしの|扉《とびら》から音もなく出て行った。ひょっとしたらさっきまで長門が読んでいたのは|占《うらな》い関係の本だったのではなかったろうか。洋書だったので俺には知るよしもないが。 「しかしまあ」と俺は呟く。  映画……。映画ね。  正直言うと、俺も多少の興味はあった。古泉ほど深くはない。せいぜい|大《たい》|陸《りく》|棚《だな》くらいの水深だが。  せめて俺くらいは期待を持ってやったほうがいいかもしれん。  どうせ|誰《だれ》も期待してなどいないだろうからな。  早くも前言|撤回《てっかい》、期待なんぞしてやるんじゃなかった。  翌日の放課後、俺は苦虫を|噛《か》んで味わうことになる。 ・製作著作……SOS団 ・総指揮/総|監督《かんとく》/演出/|脚本《きゃくほん》……涼宮ハルヒ ・主演女優……朝比奈みくる ・主演男優……古泉一樹 ・|脇役《わきやく》……長門有希 ・助監督/|撮影《さつえい》/編集/荷物運び/小間使い/パシリ/ご用聞き/その他雑用……キョン  こんなことが書いてあるノートの切れ|端《はし》を見て、俺が思うことは一つだ。 「で、俺は何役こなせばいいんだ?」 「そこに書いてある通りよ」  ハルヒは指し棒を指揮者のように振って、 「あんたは裏方スタッフ。キャストは見ての通り。ぴったりなキャスティングでしょ?」 「あたしが主演なんですかぁ?」  か細い声で問いかける朝比奈さんは、今日はメイド服でなく|普通《ふつう》に制服を着ている。ハルヒが|着替《きが》えなくていいと言ったのだ。これから朝比奈さんを連れてどこかに出かける|肚《はら》らしい。 「あの、あたし出来ればあまり目立たないような役が……」  朝比奈さんは|困惑《こんわく》の|面《おも》|持《も》ちでハルヒに|訴《うった》えかける。 「だめ」  ハルヒは答え、 「みくるちゃんにはじゃんじゃん目立ってもらうからね。あなたはこの団のトレードマークみたいたもんだから。今のうちにサインの練習をしといたらいいわ。完成|披露《ひろう》試写のときに観客総出で求められると思うし」  完成披露試写? そんなもんどこでするつもりだ。  朝比奈さんはとても不安そうに、 「……あたし、演技なんか出来ないんですけど」 「だいじょうぶよ。あたしがバッチリ指導してあげる」  朝比奈さんはおどおどと俺を見上げ、悲しそうに|睫毛《まつげ》を|伏《ふ》せた。  今ここにいるのは俺たち三人だけである。長門と古泉は、それぞれクラスでやる出し物の打ち合わせとやらで|遅《おく》れていた。放課後居残ってまで考えることでもないように思うね。適当にやってりゃいいのに、|真《ま》|面《じ》|目《め》なクラスが案外多いんだな。 「それにしても、有希も古泉くんも不真面目ね」  ハルヒは|憤懣《ふんまん》やるかたないといった口調で俺に|矛《ほこ》|先《さき》を向けた。 「こっち優先って言っておいたのに自分のクラスの都合で遅れるなんて、厳重注意が必要だわ」  長門と古泉は俺とハルヒよりも教室に帰属意識が働いているんだろ。この時期にこんな場所にいる俺たち三人のほうがどっちかと言えばおかしいのさ。  俺はふと思いついて、 「朝比奈さんは、クラスの会議に参加しなくていいんですか?」 「うん、あたしは給仕係なだけなので、あとは衣装合わせくらいです。どんな衣装になるのかな。ちょっと楽しみ」  照れつつ|微笑《ほほえ》む朝比奈さんは、どうもすっかリコスプレ慣れしているようだ。SOS団|絡《がら》みで無意味な衣装を無意味に着せられるより、ちゃんとふさわしい場でそれなりの|恰好《かっこう》をするのがいいのだろう。焼きそば|喫茶店《きっさてん》にウェイトレスがいても何の不思議もない。文芸部室にメイドがいるよりは格段に合理的だ。  だがハルヒはどのような拡大|解釈《かいしゃく》をおこなったのか、 「なぁに、みくるちゃん。そんなにウェイトレスになりたかったの? 早く言えばいいのに。そんくらい簡単よ、あたしがコスチュームを|揃《そろ》えてあげるわよ」  あっけらかんと言い放つのはいいが、文芸部室にいる部員が制服以外のいかなる恰好をしてもそれは場にそぐわないだろう。この前のナースはどうかと思ったし、それならばやっぱりメイドが一番いい……ってのは単なる俺の|趣《しゅ》|味《み》か。 「まあ、それはいいわ」  ハルヒは俺へと向き直り、 「キョン、あんた映画作りに一番必要なものは何か|解《わか》ってる?」  さて。俺はこれまでの人生で|感銘《かんめい》を受けた映画の数々を思い|描《えが》いて参考資料とした。しばしの思考を終え、やや自信を持ちながら、 「|斬新《ざんしん》な発想と製作にかけるひたむきな情熱じゃないかな」 「そんな|抽象《ちゅうしょう》的なものじゃないわ」  ハルヒはダメ出しをして、 「カメラに決まってるじゃないの。機材もないのにどうやって|撮《と》るのよ」  そうかもしれないが、そんな|即物《そくぶつ》的なことを俺は言いたいのではなく……。まあいいか。反論しなければならないほど、俺には斬新な発想もひたむきな情熱も映画理論の持ち合わせもない。 「そういうわけだから」  ハルヒは指し棒を引っ込めて団長机に|放《ほう》り投げると、 「これからビデオカメラの調達に行きましょう」  がたん、と|椅子《いす》のずれる音がしたので横を見ると朝比奈さんが青ざめていた。青ざめもするだろうね。現在この部屋に|鎮座《ちんざ》しているパソコン一式は、ハルヒのデタラメな|強奪《ごうだつ》作戦によってコンピュータ研からパクってきたものだ。その際、|犠牲《ぎせい》となったのが朝比奈さんだった。  |栗毛《くりげ》を小刻みに|震《ふる》わせる朝比奈さんは、桜貝みたいな|唇《くちびる》をわななかせながら、 「ああああの、すす涼宮さん、そう言えばあたし用事があって今すぐ教室にもどら」 「|黙《だま》りなさい」  ハルヒ|恐《こわ》い顔。|腰《こし》を|浮《う》かせていた朝比奈さんは、「ひ」と小声を|漏《も》らしてかくんと椅子に|舞《ま》い|戻《もど》った。ハルヒは|突如《とつじよ》としてニカッと笑うと、 「心配しないで」  お前が心配するなと言って、本当に心配するようなことがなかったためしがない。 「今度はみくるちゃんの|身体《からだ》を代金代わりにすることはないから。ちょっと協力してもらうだけよ」  朝比奈さんはトラックに乗せられる寸前の|仔牛《こうし》のような目で俺を見た。俺はドナドナを|唄《うた》う代わりにハルヒに言った。 「その協力の内容を教えろ。でなけりゃ俺と朝比奈さんはここを一歩も動かんぞ」  ハルヒは、こいつらはいったい何を気にしてるのかしらと言いたげな表情で、 「スポンサー回りをするの。主演女優を連れて行ったほうが心証がいいでしょ? あんたも来なさいよ。荷物運びのためにね」 [#改ページ]  第二章  今はもう秋のはずなのに、なぜだかちっとも|涼《すず》しくない。地球はいよいよバカになったようで、秋という季節を日本に|到来《とうらい》させることを忘れてしまっているようだった。夏の暑さは無限の延長戦に入ったみたいにせっせと続き、|誰《だれ》かがサヨナラ打を打たない限り収まりそうもなかった。収まる|頃《ころ》には秋をすっ飛ばして冬になっているような気もするけど。  |遅《おそ》くなるかもしれないわね、とハルヒが言うので俺たちは鞄《かばん》を持って学校を後にした。長い坂道をずんずん降りていくハルヒの向かう所はどこだろう。高校の文化祭用自主映画に制作費を|拠出《きょしゅつ》してくれるようなスポンサーなんかいるとも思えない。映研ならまだしも、俺たちは何のために集まっているのか半年|経《た》ってもまだ誰にも解らない|零《れい》|細《さい》|謎《なぞ》団体なのだ。|門《もん》|前《ぜん》|払《ばら》いが相応だ。  山を下った俺たちは私鉄のローカル線に乗り、三駅ほど移動することになった。いつぞや、俺と朝比奈さんが二人きりの散策を|堪能《たんのう》した桜並木に近いあたり。でかいスーパーマーケットや商店街がある、割に人出のある地域である。  ハルヒは俺と朝比奈さんを背後に従え、まっすぐ商店街の中に入っていった。 「ここ」  ようやく立ち止まったハルヒの指差す先には、|一軒《いっけん》の電器店があった。 「なるほどね」と俺は言った。  この店から映画|撮影《さつえい》に使用するための機材をせしめるつもりらしい。  どうやってだ。 「ちょっと待ってて。あたしが話をつけてくるから」  鞄を俺に預けると、|躊躇《ちゅうちょ》なくハルヒはガラス張りの店内へ。  朝比奈さんは俺の後ろに隠れるようにして、照明器具のディスプレイ群で|眩《まばゆ》い店内を|恐《おそ》る恐るうかがっている。引っ込み思案な小学生の女の子が友達の家を初めて訪ねたみたいな|雰《ふん》|囲《い》|気《き》だ。俺は今度こそ朝比奈さんを守る気満々となり、店長らしきオッサンに|身振《みぶ》り手振りで話しかけているハルヒの背中を観察した。少しでもハルヒが|胡《う》|乱《ろん》なことをやろうとしたら、このまま朝比奈さんを|小《こ》|脇《わき》に|抱《かか》えて|遁《とん》|走《そう》しよう。  ガラスの向こうでは、ハルヒが何か|喋《しゃベ》りながら展示品を指したり自分を指したりオッサンを指したりしている。オッサンも、なんかふんふんうなずいているが、そんな|奴《やつ》の言うことに安易に首を縦に|振《ふ》らないほうがいいと忠告してやるべきだろうか。  やがてハルヒはパッと振り返り、ガラスドアの外でいつでも逃げ出せる態勢をとっている俺たちを人差し指で示し、ワライタケを|喰《く》ったみたいな|笑《え》|顔《がお》をつくり、また手をバタバタさせつつ演説を続けた。 「何をしてるんでしょう……?」  朝比奈さんが俺の|斜《なな》め後ろで顔を出したり引っ込めたりしながら疑問の声を出す。  未来から来た朝比奈さんに|解《わか》らないものが俺に解るわけもない。 「さあ。どうせこの店で一番高性能なデジタルハンディビデオカメラを|無《む》|償《しょう》|貸《たい》|与《よ》せよ、とか言ってるんじゃないでしょうか」  それくらいのことを平然という女だ、アレは。ヘタすりゃ世界の中心に立って地球を回しているのは自分だと信じているような奴だからな。 「困ったもんだ」  ちょっと前のことだが、似たような疑問を長門に|訊《き》いてみたごとがある。  ハルヒは|己《おのれ》の価値基準や判断を絶対的なものだと信じ込んでいる。他人の意思や意識が自分のものとは|違《ちが》う場合もある、むしろ違ってばかりであるということが解っていないに違いない。|超《ちょう》光速航法を実現したいなら、ハルヒを宇宙船に乗せてやればいい。やすやすと相対性理諭を無視してくれるだろう。  そんなようなことを長門に言ったところ、あの無口な宇宙人モドキは、 「あなたの意見は、おそらく正しい」  と、長門にしては意味のある文章を喋った。|冗《じょう》|談《だん》がシャレにならない存在、それが涼宮ハルヒであった。 「あ、話終わったみたい」  朝比奈さんの|密《ひそ》やかな声で俺は回想シーンから|戻《もど》ってきた。  果たして、ハルヒはご|満《まん》|悦《えつ》の表情で電器店から出てきた。両手で|小《こ》|振《ぶ》りの箱を抱えている。有名電機メーカーのロゴがでっかく|踊《おど》る横にプリントされている商品写真、それは俺の見間違えでない限り、ビデオカメラの形状をしていた。  いったいどういう|脅《おど》し文句を使ったんだ?  よこさないと放火するとか、不買運動するとか、一晩中イタズラFAXを流し続けるとか、今すぐここで暴れ出すとか、予告なしで|自爆《じばく》するとか——。 「バカじゃない? そんな|脅迫《きょうはく》まがいのことをするわけないじゃないの」  ハルヒは|機嫌《きげん》良く、商店街の|天蓋《てんがい》の下を歩いている。 「これで初めの一歩は成功ね。順調だわ」  俺はビデオカメラの入った箱を持たされて後をついて行っている。ハルヒの背中で|揺《ゆ》れるストレートヘアを見ながら、 「だから、どうやったらタダでこんな高そうなもんをくれるんだよ。あの|親父《おやじ》はお前に何か弱みでも|握《にぎ》られていたのか?」  そう、店を出てきたハルヒは開口一番、「もらった」と宣言しやがったのだ。くれるんだったら俺だって欲しい。決めゼリフを教えてくれ。  振り返ったハルヒは、ニマアっと笑いつつ、 「べっつにー。映画|撮《と》りたいからちょうだいって言ったら、いいよってくれたのよ。何の問題もないわ」  今はなくとも後々問題になりそうな気がしているのだが、これは俺が心配|性《しょう》だからか。 「いちいち気にしないの。あんたは大らかにあたしの下僕として働いていればいいんだから」  あいにく俺は、今年の春から船体横にタイタニックと書いてある船にうっかり乗り込んでしまったような気分を今もって味わっている最中だ。どこかにSOSを打電したくもあったが残念ながらモールスを知らない。それ以前に、下僕とか言われて大らかになれるほど俺は|根《こん》|性《じょう》がすわってないぞ。 「さあ、次の店に行くわよ!」  買い物客の波の中で、ハルヒは元気よく手足を動かして歩き出す。俺は朝比奈さんと顔を見合わせ、競歩みたいなスピードで遠ざかるハルヒの後ろ姿を追った。  次にハルヒの訪問を受けたのは模型ショップだった。  またしても俺と朝比奈さんを外に置き去りにして、ハルヒは一人で|交渉《こうしょう》人をやっている。だんだん解ってきた。ガラス|越《ご》しに俺たちを指差すとき、ハルヒの人差し指は朝比奈さんを正確に示しているのだ。値段ぶんの働きをどういう形でか朝比奈さんがすることになりそうな具合だ。それに気付かず、朝比奈さんは店頭に展示してあるジオラマのケースを|物《もの》|珍《めずら》しそうに|覗《のぞ》き込んでいた。教えたほうがいいのかな?  待つこと数分、出てきたハルヒは、またまた|身体《からだ》の前にかさばりそうな箱を|抱《かか》えていた。今度は何だ。 「武器よ」  ハルヒは答えて俺に荷物を押しつける。よく見ればプラモデルか何かの箱だった。それもピストルだかの|銃《じゅう》|器《き》の|類《たぐい》である。何すんだ、こんなもん。 「アクションシーンに使うのよ。ガンアクションよ。|派手《はで》な|撃《う》ち合いはエンターテインメントの基本なの。できればビルを丸ごと爆破したいくらいなんだけど、ダイナマイトってどこで売ってるか知ってる? 雑貨店にあるかしら」  知るか。少なくともコンビニやネット|通販《つうはん》では売ってないだろうな。どっかの採石所に行けば置いてあるんじゃないか——と言いかけて、俺は|踏《ふ》みとどまった。こいつのことだ、夜中に信管とTNT火薬を|盗《ぬす》みに行きかねない。  ビデオカメラとモデルガンの箱を地面に置いて、俺はハルヒに向けて首を|振《ふ》った。 「それで、この大荷物をどうするんだ?」 「いっぺん家に持って帰って、明日また部室まで持ってきて。これから学校に|戻《もど》るのは|面《めん》|倒《どう》だから」 「俺が?」 「あんたが」  ハルヒは|腕組《うでぐ》みをして実にいい顔をした。教室では|滅《めっ》|多《た》に見られない、SOS団専用スマイルだ。そして、こんなふうにハルヒが笑うと、回り回って俺に災難を回収する役割が|巡《めぐ》ってくることになっている。逆|藁《わら》しべ長者か。 「あのう」  朝比奈さんが|控《ひか》えめに片手を挙げる。 「あたしは何をしたら……」 「みくるちゃんはいいのよ。もう帰っちゃっていいわ。今日は用済みだから」  ぱちくりと|瞳《ひとみ》を|瞬《まばた》かせ、朝比奈さんは|狐《きつね》に化かされた|仔《こ》|狸《だぬき》みたいな表情になった。朝比奈さんが今日したことと言ったら、俺と共にハルヒの後ろをビクビクしながら歩いていただけだったからな。何のためにハルヒが自分に同行を強制したのか理解不能だろう。俺にはなんとなく読めていたが。  ハルヒは今にもラジオ体操第二を|踊《おど》りそうな勢いで、|最寄《もよ》りの駅へと俺たちを|誘《さそ》った。本日のハルヒ的活動はこれで打ち止めらしい。|敏腕《びんわん》ネゴシエーターでも左側に寄りそうな手腕で入手したのはビデカメ一台と|小《しょう》|銃《じゅう》数丁。かかった費用は無料、つまリタダだ。  昔の人はよく言ったものだ。タダより|恐《こわ》い物はない。問題は、ハルヒがそれを全然|怖《こわ》がっていないことだった。と言うか、こいつの恐がりそうなものがあったら|是非《ぜひ》俺までご|連絡《れんらく》いただきたい。  翌日、俺が|鞄《かばん》以外の余計な荷物を抱えてえっちらおっちら坂を上っていると、 「よ、キョン。何背負ってんだ? どっかの良い子たちへのプレゼントか?」  俺の横に追いついてきたのは谷口だった。俺とハルヒのクラスメイトで単純|単《たん》|細胞《さいぼう》バカの、|間《ま》|違《ちが》いなくそこらに転がっている|普通《ふつう》の同級生の一人である。普通。いい言葉だ。今の俺の立場からすれば貴重ですらある。そこには現実的な|言霊《ことだま》が宿っているからな。  俺はしばらく迷ってから、二つのスーパーの|袋《ふくろ》のうち軽い方を谷口に押しつけた。 「なんだこりゃ、モデルガン? お前、こんな暗い|趣味《しゅみ》があったのか」 「俺じゃない。ハルヒの趣味だ」  それから一応フォローしておくが、暗い趣味と言い切るのは間違いだと思うぞ。 「涼宮が一人でグロックの分解|掃除《そうじ》してる姿なんざ想像できねえな」  俺もできないから、これを分解したり組み立てたりするのはハルヒ以外の|誰《だれ》かになるのだろう。ちなみに俺はガキのころ|某《ぼう》モビルスーツを組み立てようとしてどうしても|右《みぎ》|肩《かた》のジョイントが|嵌《はま》らず投げ出した過去を持つ男だ。 「お前も大変だな」  谷口はちっとも大変だとは思っていないような声で、 「涼宮のお|守《も》り役が勤まるのは古今東西探し回ってもお前くらいのもんだぜ。俺が保証してやる。だからさっさとくっついちまえ」  何て事を言いやがる。俺はいかなる意味でもハルヒと接着するつもりはない。俺がくっつきたいのは、むしろ朝比奈さんのほうだ。誰がどう考えてもそうだろ?  谷口は、ケケケと|妖怪《ようかい》じみた笑い声を上げた。 「ああ、そりゃダメだ。あの人は北高の天使様、男子学生の心の|拠《よ》り所だからな。全校生徒の半分からフクロにされたくなかったら|妙《みょう》な|真似《まね》はしないこった。お前だって逆上した俺に後ろから|刺《さ》されたくはないだろ?」  じゃあ次点の長門にしておくよ。 「それもまた無理だな。あれはあれで|隠《かく》れファンが多いんだ。なんで|眼鏡《めがね》やめたんだろうな。コンタクトにしたのか?」 「さあな。本人に|訊《き》いてくれ」 「聞いた話じゃ、いまだに何を話しかけても無視されるそうだぜ。なんでも長門のクラスでは、あいつが一言でも|喋《しゃべ》るとその日はいいことか悪いことかのどちらかが起こると信じられているらしい」  長門を竹の花みたいに言うな。いつの時代の|吉兆《きっちょう》|占《うらな》いだ。あいつは確かに普通ではないかもしれないが、それなりに普通であるところも——まあ、あんまりないな。 「つまりお前には涼宮が似合ってんのさ。あのアホとまともに話が出来るのはお前だけで、|被《ひ》|害《がい》者は少ないほうがいい。なんとかしてやってくれ。そういやそろそろ文化祭だが、今度は何をやってくれんだ?」 「だから俺に訊くな」  俺はSOS団|渉外《しょうがい》担当要員ではない。しかし谷口は平然と、 「涼宮に訊いてもわけの|解《わか》らんことを言うだけだろ。突っつき具合を間違えると暴れ出す|恐《おそ》れがあるしな。長門有希はどうせ何訊いても何も言わねえ。朝比奈さんは近寄りがたい。もう一人の男は話していると何かムカつく。だからお前に訊いてんのさ」  妙な|理屈《りくつ》をこねる|野郎《やろう》だ。それではまるで俺が単なるお|人好《ひとよ》しのようじゃないか。 「違うのか? そっちに歩いていけば|崖《がけ》に落ちると解ってんのに|一緒《いっしょ》になって歩いている付き合いのよすぎる男に見えるけどな、俺には」  校門が見えてくる。俺は|憮然《ぶぜん》たる面持ちで谷口からスーパー袋を|奪《うば》い返した。  ハルヒ的|獣《けもの》|道《みち》の行き着く先に何があるのかは知らないが、ロクでもないものが待ち受けているだろうなとは、そりゃ俺だって思っている。だが、一緒に歩いているのはハルヒと俺だけじゃなく、解っているだけで|他《ほか》に最低三人はいるのだ。そのうち二人は|放《ほう》っておいても|大《だい》|丈夫《じょうぶ》だろうが、朝比奈さんは危なっかしい。未来人とは思えないほど、自分の身に起こる何かを全然予測できていないのだ。ま、それがいいんだけど。 「だからな」と俺は言ってやる。「誰かが守ってやらんといかんのだ」  おお、我ながら主人公みたいなセリフだな。守ると言ってもハルヒの行き過ぎたセクハラの|魔手《ましゅ》からだけどさ。  俺はいい調子で、 「せっかくだから俺が守る。全学年の男連中が何を言おうと俺は知らん。勝手に|紳士《しんし》同盟でも作っていやがればいい」  谷口は、またコナキジジイのようにケケケと笑い、 「ほどほどにしとけよ。新月の夜が月に一回は必ずあるんだからな」  通り魔予告みたいなことを言って、門をくぐった。  俺が荷物とともに教室の前の|廊下《ろうか》を歩いていると、ハルヒが自前の荷物を自分のロッカーに押し込んでいるところに出くわした。  俺も電気機器とプラモの箱を俺の出席番号の書かれたスチールロッカーにしまい込む。 「キョン、今日からいそがしくなるわよ」  おはようも言わずにハルヒはロッカーのフタを音高く閉めると、俺に|小春《こはる》|日和《びより》のような|笑顔《えがお》を向けた。 「みくるちゃんも有希も古泉くんもね。ガタガタ言わせたりしないわ。映画のシナリオはあたしの頭の中でバッチリ|煮詰《につ》まっているのよね。ぐつぐつ言ってるくらいよ。後は形にするだけよ」 「あっそう」  俺は適当に答えて教室に入った。俺の机は数えて後ろから二番目にある。一学期から何度も|席替《せきが》えをしたが、|未《いま》だに一番後ろの席を引き当てたことがない。なぜなら、俺の後ろには毎回ハルヒが座っていたからだ。そろそろ|偶然《ぐうぜん》と考えるのは不自然だと思えるようになってきたが、それでも俺は偶然を信じている。俺が信じてやらないと偶然のほうが自信|喪失《そうしつ》するような気がするんでね。これでも俺は気配りの人なのだ。ハルヒなんかと付き合っていたら|誰《だれ》でもそうなるぜ。ルーズボールをチェックに行く守備的MFみたいなもんさ。なんせハルヒはオフサイドラインの|遥《はる》か向こうでひたすらボールを待っているだけのような|超《ちょう》|攻撃《こうげき》的FWだからな。敵キーパーより後ろにいるかもしれない。そこにパスしても|線審《せんしん》の旗が上がるのは確実なのだが、それはハルヒにすればひたすら|誤審《ごしん》に過ぎないのである。そんなルールがあるほうがおかしいとハルヒは|大《おお》まじめで言うだろう。そのうちボールを手に持ってゴールポストに飛び込んでもそれは一点なのだと主張しかねない|奴《やつ》なのだ。だったらラグビーをやれという提案は通用しない。  走る|傍若《ぼうじゃく》|無人《ぶじん》の対処法は、何もかも聞かなかったことにしてさり気なくその場を|離《はな》れるか、すべてをあきらめてこいつの言うとおりにするほかにない。俺以外の同級生はとっくにそうやっている。  だからその日の六限が終わるなりハルヒが教室から姿を消し、終わりのホームルーム時に俺の真後ろが空席になっていても、担任岡部教師も他の誰も何も言わなかった。気付いていないか、気付かなかったフリをしているのか、気付くだけ|無駄《むだ》だと思っているのか、まあ放っておくのが一番なのでどれだって同じなのさ。  俺は予感めいたものを感じながら部室|棟《とう》に向かい、何個もの箱が入った|袋《ふくろ》を両手にぶらさげたまま文芸部室の前で立ち止まった。  なんか聞こえてくる。きゃあとか言ってるのは朝比奈さんのいたいけな声で、ぎゃあとか|喚《わめ》いているのはハルヒのイタい声だ。またやってる。  ここでドアを開けると実に絵的によろしいシーンを見ることができそうだが、常識人たる俺はストイックにも|妄想《もうそう》を|堪《こら》えつつ、じっと待ちの態勢である。  五分ほどして、内部でのささやかな|闘争《とうそう》は収まった。どうせハルヒが勝ち|誇《ほこ》った顔で両手を|腰《こし》に当てているに|違《ちが》いない。ウサギが巨大アナコンダに勝てないのと同じ理屈で、朝比奈さんが勝つとは思えないからな。  俺のノックに、 「どーぞっ!」  ハルヒの勇ましい返答。俺は朝に見かけた紙袋の中身は何だったのかと思いつつ、|扉《とびら》を開けて部室に入った。まず目に入ったのはやはりハルヒの勝ち誇った顔だった。が、そんな顔なら俺はもう|見飽《みあ》きている。俺はハルヒの前のパイプ|椅子《いす》に座っている人物へと視線を向けて、|激烈《げきれつ》かつ熱烈に注目した。  ウェイトレスがそこにいて、俺に|涙《なみだ》|目《め》を向けてくれた。 「…………」  やや|髪《かみ》を乱しているウェイトレスさんは長門の真似みたいに黙り込み、つつっとうつむいた。その背後では、ハルヒが彼女の豊かな|栗色《くりいろ》の髪をツインテールに|結《ゆ》っている。|珍《めずら》しくも長門の姿はない。 「どう?」  ハルヒはふふんと笑いながら俺に|訊《き》いた。どうしてお前が自分の|手柄《てがら》みたいな顔をするんだ? 朝比奈さんの|可愛《かわい》さは朝比奈さんのものだぞ。……とは言え。  まあね? 俺はいいと思うんだけどね? 朝比奈さんはどうなのだろうね? いやいや俺には異議はないよ? しかしこのスカート|丈《たけ》はちょっと短すぎるんじゃないかなあ?  完全無欠100%フルーツ|果汁《かじゅう》なまでにウェイトレスの|扮装《ふんそう》をした朝比奈さんは、ぴったり|揃《そろ》えた|膝《ひざ》|小僧《こぞう》に両手の|握《にぎ》り|拳《こぶし》を置いて固まっていた。  それがもうあなた、異様に似合っていた。カエアン製の|衣装《いしょう》かと思ったほどだ。おかげで三十秒くらい無言で朝比奈さんを見つめ続けていた俺は、後ろから|肩《かた》を|叩《たた》かれて飛び上がりかけることになった。 「やあどうも。昨日はすいませんでした。今日は今日とて|脚本《きゃくほん》でモメそうだったのですが、僕は早々に切り上げさせてもらったんですよ。|堂々《どうどう》|巡《めぐ》りには付き合い切れません」  古泉がニヤケハンサムな顔で俺の肩|越《ご》しに部室を|覗《のぞ》き込み、 「おや」  |愉快《ゆかい》そうに|微笑《ほほえ》んで、 「これはこれは」  古泉は俺の横を通り過ぎるとテーブルに|鞄《かばん》を置き、パイプ椅子に腰を落ち着け、 「よくお似合いですよ」  そのまんまな感想を述べた。そんなもん見りゃ|解《わか》る。解らないのは、なんで|喫茶《きっさ》|店《てん》でもファミレスでもないのにウェイトレスがこの|薄《うす》|汚《ぎたな》い小部屋にいるのかってことだ。 「それはね、キョン」とハルヒ。「みくるちゃんにはこのコスチュームで映画に出てもらうからよ」  メイドじゃ不都合なのか? 「メイドってのは大金持ちの|屋敷《やしき》とかにいて個人的|奉仕《ほうし》活動するのが仕事よ。ウェイトレスは違うわ。街角のどっかの店で時給七三〇円くらいで不特定多数にサービスを提供するのが目的なの」  それが高いのか安いのかは知らんけど、どっちにしろ朝比奈さんは屋敷|勤《づと》めやバイトをするために毎回こんな|恰好《かっこう》をしちゃいないだろう。ハルヒの金で|雇《やと》っているのなら別だが。 「細かいことは気にしないでいいの! こういうのは気分の問題なのね。あたしは気分いいわ」  お前はよくても朝比奈さんはどうなんだ。 「すす、涼宮さん……。これちょっとあたしには小さいような……」  朝比奈さんはよほど気になるのか、しきりにミニスカートの|裾《すそ》を押さえっぱなしだ。その|微《び》|妙《みょう》な動きがもどかしく、ついつい俺もそっちを見てしまうじゃないか。 「こんぐらいがちょうどいいのよ。ジャストフィットって感じだわ」 俺はムリヤリ視線を引きはがし、ハルヒの密林に|咲《さ》く|派手《はで》な花みたいな|笑顔《えがお》に固定した。ハルヒは|真《ま》っ直《す》ぐ前しか見ていない|瞳《ひとみ》を俺に照準、 「今回の映画のコンセプトが」  朝比奈さんの丸まった背中を指差す。 「これなのよ」  これ、と言われても。|茶店《さてん》でバイトする少女の日常ドキュメンタリーフィルムでも|撮《と》るつもりか。 「違うわよ。みくるちゃんの日常を|隠《かく》し撮りしたってちっとも|面白《おもしろ》くもなんともないわ。|普通《ふつう》の日常を記録するだけで楽しい物語になるなんてのはね、よっぽどエキセントリックな人生を送っている人だけよ。ただの高校生の一日を|撮影《さつえい》したって、そんなの自己満足にすぎないの」  別に朝比奈さんは満足しないと思うし、第三者的にはそれはそれで|需要《じゅよう》があるような気もするし、だいたい朝比奈さんの日常はけっこうエキセントリックなものである感じもするのだが、ここは黙っておこう。 「あたしはSOS団代表|監督《かんとく》として|娯楽《ごらく》に|徹《てっ》することに決めたの。見てなさい、観客を残らずスタンディングオベーションさせてみせるからね!」  よく見るとハルヒの|腕章《わんしょう》の文字は、いつの間にか「団長」から「監督」に変わっていた。用意|周到《しゅうとう》な|奴《やつ》である。  一人で盛り上がっている女監督と、盛り下がっている主演女優、|曖昧《あいまい》な笑みで見物人みたいに一歩|退《ひ》いている主演男優を見回したのち、俺がどうしたものかと考えていると、部室の|扉《とびら》が音もなく開いた。 「…………」  何が登場したのかと思った。俺の長くもない人生に早くもお|迎《むか》えが来たのかと|一瞬《いっしゅん》ビビリが入る。モーツァルトにレクイエムを発注しに来たサリエリが出演する映画の楽屋を|間違《まちが》えたんじゃないかと疑ったくらいだ。 「…………」と、得意の三点リーダを連続させながら足音もなく入ってきたのは、長門有希のいつもより白い顔だった。顔しか|露出《ろしゅつ》していない。後は真っ黒だ。  絶句しているのは俺だけでなく、ハルヒと朝比奈さんも同様で、古泉さえも微笑みに|驚《おどろ》きの色を消費税分くらい混ぜ込んでいる。さもありなん、長門は朝比奈さんもびっくりの|奇抜《きばつ》な衣装をまとっていた。  暗幕みたいな黒いマントで全身をすっぽり|覆《おお》い、頭に同色の|鍔広《つばひろ》なトンガリ|帽子《ぼうし》をかぶっていて、ほとんど寸足らずのバンパイアハンターである。  俺たちが見守る中、死神みたいな恰好をした長門は、|黙々《もくもく》と自分の定位置である|隅《すみ》っこの席に着き、マントの裾から鞄とハードカバー本を取り出してテーブルに置いた。  そして俺たち四人の|驚愕《きょうがく》をあっさりと無視し去ると、|淡々《たんたん》と読書を開始した。  文化祭でクラスがする|占《うらな》い大会の|衣装《いしょう》なんだそうだ。  絶句から最速で立ち直ったハルヒの|矢継《やつ》ぎ早な質問に答える長門の単語を|繋《つな》げていくと、そういう答えになる。長門にこんな愉快な恰好をさせるとは、こいつのクラスにはなかなか才能豊かなスタイリストがいそうじゃないか。  それにしても、この悪いてるてる|坊主《ぼうず》みたいな衣装で教室からここまで歩いてくるとは、長門は長門なりに朝比奈さんに|対抗《たいこう》意識を燃やしでもしているのか? ハルヒ以上に考えのつかめない女だな、こいつは。  そんな何とも言えない気まずい空気が|漂《ただよ》う中、ハルヒだけが大喜びしていた。 「有希、あなたも|解《わか》ってきたじゃない! そう、それよ!」  長門はゆっくりと目をハルヒに向け、またぺージに|戻《もど》した。 「あたしの考えていた配役にぴったりの衣装だわ! あなたにそれ着せた人を後で教えてちょうだい。この感謝の気持ちを電報にして打ったげたいわね」  やめてやってくれ。お前から祝電でも来た日には、何か裏があるんじゃないかと疑心|暗鬼《あんき》にかられるのが関の山だ。もう少し周囲の自分への評価を客観視してくれよ。  すっかりご|機嫌《きげん》さんになったハルヒは、鼻歌でトルコ行進曲を|奏《かな》でながら自分の|鞄《かばん》を開けて数枚のコピー用紙を取り出す。それを手早く俺たちに配布して、ツキノワグマを土俵|際《ぎわ》に転がした|金太郎《きんたろう》みたいな表情をした。  しょうがないので俺はその紙切れに目を落としてみる。  次のような文章が乱暴に書いてあった。 『戦うウェイトレス 朝比奈ミクルの冒険《ぼうけん》(仮)』 ☆登場人物 ・朝比奈ミクル……未来から来た戦うウェイトレス。 ・古泉イツキ……|超能力《ちょうのうりょく》少年。 ・長門ユキ……悪い宇宙人。 ・エキストラの人たち……通りすがり。  …………まあ、なんだ。あれだ。  |呆《あき》れ果てるのを|超越《ちょうえつ》して、こいつはいったい|勘《かん》がいいのかどうなのか、それとも当てずっぽうがなぜか的中するのか、もしやワザと知らんぷりしてんじゃないかと思わされるくらいである。何なんだ、この変なところで発揮される|奇怪《きかい》な|鋭《するど》さは。  |唖然《あぜん》としていた俺は、|脇《わき》から聞こえるクスクス笑いに我に返った。こんなふうに笑うのも、やはり決まって古泉である。 「いや、これは……」  楽しそうで|羨《うらや》ましいぜ。 「何と言いますか、さすがと言うべきでしょうね。本当に、涼宮さんらしい配役です。|素晴《すば》らしいですね」  俺に|微笑《ほほえ》みかけるな。気持ち悪い。  A4コピー紙を両手で|握《にぎ》って読んでいた朝比奈さんはぴくぴくと|華奢《きゃしゃ》な手首を|震《ふる》わせている。 「わ……」  小声を|漏《も》らして、俺に救いを求めるような顔を向ける。と思ったら、とても悲しそうな、非難するような|眼差《まなざ》しだった。まるで|歳《とし》の|離《はな》れた|親戚《しんせき》の|優《やさ》しいお姉さんがイタズラのすぎた幼児を|諭《さと》しているような……と、俺はやっと思い出した。そう言えば、半年前の事件後、俺がハルヒに三人の正体を教えてやったことを。  うげ。マズい。これは俺のせいか。  |慌《あわ》てふためいて長門を見ると、黒マントに黒帽子をコーディネイトした対人間用ヒューマノイド・インターフェースとやらは、 「…………」  |黙《だま》って本を読んでいた。 「とりたてて問題はないでしょう」  古泉が楽観的に主張している。俺はもう一つ笑えない。 「笑うこともないでしょうが、悲観することでもありません」 「どうして解るんだ」 「なぜなら、たかが映画の配役だからです。涼宮さんは本気で僕が超能力少年だと思っているわけではありません。あくまで映画というフィクション内で、僕が演じる古泉イツキなる少年が超能力者だと設定しているだけですからね」  古泉は|記億《きおく》力の足りない生徒に向かう家庭教師のように、 「現実にこうして存在する僕、古泉一樹と、このイツキくんは別人も同然ですよ。|誰《だれ》だって映画の中の登場人物と演じている俳優を混同したりはしないでしょう? もし混同する人がいるんだとしても、それは涼宮さんには当てはまりません」 「なんだか、あんまり安心できないな。お前の言うことが正しいという保証はない」 「もし彼女が現実とフィクションをごっちゃにしているんだとしたら、この世の中はとっくにファンタジックな世界になっているでしょうからね。前にも言いましたが、涼宮さんはあれでも現実的な思考の持ち主なのです」  それは|解《わか》る。ハルヒの現実的思考なるものが|中途《ちゅうと》|半端《はんぱ》に|神懸《かみが》かっているせいで、俺はけったいな事件の数々に巻き込まれているのだからな。しかも|肝心《かんじん》のハルヒが全然無自覚なうちにだ。 「|証拠《しょうこ》を見せつけるわけにもいきませんから」  古泉はサラリと言う。 「もしかするとそんな事態にならざるを得ないときが来るのかもしれません。でもそれは今ではない。幸いなことに、朝比奈さんや長門さんの勢力も同意見のようです。僕は永遠にこのままでもいいと思いますけどね」  俺だってそう思うさ。世界がしっちゃかめっちゃかになるのは見たくない。来週発売のゲームソフトをとことんやり込んでからでないと未練を残しそうだ。  古泉は|微笑《ほほえ》みくんのまま、 「世界を心配するより、あなたは自分のことをもっと注意して見守るべきですね。僕や長門さんの代わりは|他《ほか》にもいるかもしれませんが、あなたにアンダースタディはいませんので」  俺は複雑化した胸の内を|気取《けど》られないように、手元の|銃《じゅう》のガス入れに熱中しているフリをした。  この日のハルヒは朝比奈さんに|衣装《いしょう》をあてがい、役名を発表しただけに終わっていた。本当はウェイトレスコスの朝比奈さんを引き連れて校内を練り歩いたあげく大々的に製作発表記者会見をしたかったらしいのだが、朝比奈さんが本気で泣きかけたため俺が断念させた。もともとこの高校には新聞部も報道部も宣伝部もない。そう言う俺を見てハルヒは|唇《くちびる》を水鳥状態にしながらも引き下がり、 「それもそうね」  |驚《おどろ》くべきことに、うなずいたりした。 「内容はギリギリまで秘密にしておいたほうがいいわね。キョン、あんたにしては気が|利《き》くじゃない。よそにパクられたら困るもんね」  ハリウッドや|香港《ホンコン》映画のアイデアじゃあるまいし、誰がそんなお前の頭ん中で|煮《に》えているだけのストーリーボードを欲しがると言うんだ。 「じゃあキョン、その銃、今日中に使えるようにしておいて。明日がクランクインなんだからね。それから、カメラの取り|扱《あつか》い方も覚えておかなきゃダメよ。あ、そうそう。映像データはパソコンに移して編集するから必要なソフトをどっかからかっぱらってきなさい。それから——」  という具合に散々宿題を押しつけ申しつけて、ハルヒは『|大《だい》|脱走《だっそう》』のテーマを口ずさみながら帰ってった。  |機嫌《きげん》がよくても悪くてもどっちにしろ|面倒《めんどう》|事《ごと》を生み出す|奴《やつ》だな、まったく。  そして今、俺と古泉は男二人で顔つき合わせモデルガンからBB|弾《だん》が出るように説明書と首っ引きで奮戦しているところだった。  |着替《きが》えの|終了《しゅうりょう》した朝比奈さんは|肩《かた》を落としてとぼとぼと帰宅、長門はサバトに招待された|魔《ま》|女《じょ》みたいな|恰好《かっこう》のまま|鞄《かばん》も持たずにどこかに行った。どうも長門は自分の|扮装《ふんそう》を俺たちに見せに来ただけのようだった。あいつのことだから何か意味があるのかもしれないし、単なる顔見せかもしれない。たぶん|今頃《いまごろ》は自分の教室で何かしてるんだろう。|水晶《すいしょう》|占《うらな》いの予行演習か、そんなのをな。  一日ごとに校内のざわつき加減が|微増《びぞう》している感覚はあった。放課後になるたび鳴り|響《ひび》く|吹《すい》|奏《そう》|楽《がく》部のヘタクソなラッパは徐々に間違い箇所が減っていってるし、校庭の陰でベニヤやバルサをギコギコ切っている奴もいるし、長門のように変な恰好をした生徒も少しずつだが増え始めた。  が、しょせんは地味な県立高校のお祭り行事、まったくハメを外しそうにないごくごくおとなしい文化祭になりそうだ。見た感じ、楽しむための努力を|放棄《ほうき》していないのは学校全体でもせいぜい半分と言ったところだな。ちなみに俺たち一年五組は楽しむこと自体を放棄している。文化系のクラブに所属していない奴らは当日、けっこうなヒマを持てあますに違いない。その帰宅部の代表格みたいなのが、谷口と|国木田《くにきだ》だ。 「文化祭と言えば」  谷口が言い出した。  昼休み、俺とこの|端役《はやく》二人は三人で弁当箱を囲んでいる。 「文化祭と言えば?」  国木田が|訊《き》き返す。谷口は古泉の上品なそれとは|比較《ひかく》するのも気の毒になるような無様な二ヤリ笑いを|浮《う》かべて、 「スーパーイベントだ」  ハルヒみたいなことを言うな。谷口は急激に表情から|笑《え》みをぬぐい去り、 「だが、俺には関係のないイベントだ。つか、腹立たしい」 「何で?」と国木田。 「俺が全然楽しくもないのに、楽しそうにしている奴らがめちゃめちゃ|目障《めざわ》りだ。特に男女二人組なんか、殺意を覚えるぜ。え? 何なんだ?」  |逆恨《さかうら》みという奴だろう。 「このクラスも何だ? アンケート? はっ! つまらん。どうせあなたの好きな色は何ですかとか、そんなだろ? そんなもん集計して何か楽しいんだ?」  だったらお前が名案を提案すればよかったじゃねえか。そしたらハルヒも映画がどうのとか言い出さなかったかもしれないのに。  谷口は弁当のウィンナーを一口で飲み込み、 「俺はそんな面倒なことを言い出したりはせん。いや、言うのはいいが、シキリをさせられるのはイヤだからな」  国木田は、そうだねえと言いつつ、だし巻き卵を刻む手を休めて、 「こんな時に手を挙げて発言するのは、よほどのお調子者か責任感の強い生徒くらいだもんね。朝倉さんがいればなあ」  カナダに引っ|越《こ》したことになっている元クラスメイトの名前を挙げた。その名を聞くたびに俺の心は|若干《じゃっかん》の冷や|汗《あせ》を生じさせる。朝倉を消したのは長門だが、その原因となったのは俺だったからだ。|放《ほう》っておけば消えていたのは俺のほうだったので、心を痛めていてもどうしようもないが。 「ああ、|惜《お》しいことをしたな」谷口が言った。「よりによってAAランクプラスがいなくなっちまうとはついてねえ。このクラスになってよかったと思った|唯《ゆい》一《いつ》のことだったのによう。くそ、今からクラス|替《が》えしてくんねえかなあ」 「どこのクラスがいい?」国木田が問いかける。「長門さんのクラスとか? あ、そういや昨日、|魔法《まほう》|使《つか》いみたいな恰好で歩いてるの見たけど、何あれ」  さあね。俺は知らん。 「長門ねえ……」  谷口は数学の|抜《ぬ》き打ち小テストを前にしたような顔を俺に向け、さも今思い出したみたいな口調で、 「いつだっけ? お前とあいつが教室で|絡《から》み合っていたのはよ。どうせあれだって、涼宮のシナリオだろ。俺をドッキリさせようって計画だったんだろ? そうはいかねえな」  勝手に|勘違《かんちが》いしてくれて俺は肩の荷が下りた気分だ。……待てよ、あんときお前は忘れ物を取りに来たんじゃなかったか? どうやったらあらかじめお前が|戻《もど》ってくることを俺たちが知れたのか——なんてことは当然、俺は言わんわけである。谷口はアホであり、アホな奴をアホと言っても何ら俺の心は痛まないわけである。よかったよ、こいつがアホで。感謝したいくらいだ。 「それにしてもつまんねえな」  谷口が|慨嘆《がいたん》し、国木田は弁当に集中し、俺は自分の背後を見た。ハルヒの机は空席。さて、|今頃《いまごろ》どこを練り歩いてるんだか。 「学校でロケができそうな所を探してたのよ」  と、ハルヒは言った。 「でも全然なかったわ。やっぱり近場ですまそうとしてたらダメね。外に行きましょう」  学内の|雰囲気《ふんいき》が気に入らないのかもしれない。しかし今ひとつ盛り上がりに欠けるからといってわざわざ外部に遠征して盛り上がるための場所を探さなくともいいのに。どうやっても|騒《さわ》ぎ|倒《たお》したいらしいな。 「えー……。あ、あたしも行くんですか?」  ヒキ気味の声で|訴《うった》えるのは朝比奈さんだった。 「当然でしょ。主役がいないと話にならないもの」 「こここの服で、ですかー?」  ハルヒがどこからか持ち寄った|扮装《ふんそう》、昨日に引き続きウェイトレスの制服を着せられて小さくなって|震《ふる》える朝比奈さんである。 「うん、そう」  ハルヒはあっさりうなずき、朝比奈さんは自分の|身体《からだ》を|抱《だ》きしめるようにしてイヤイヤをする。 「いちいち着替え直すのも|面倒《めんどう》でしょ? それに現場に着替えるとこないかもしれないしね。ならいっそ最初から着替えておけばいいんじゃない? でしょ? さ、出かけましょう! みんなでね!」 「せめて上から|羽織《はお》る物を……」  |懇願《こんがん》する朝比奈さんに、 「だめ」 「だって、|恥《は》ずかしいですよう」 「恥ずかしいと思うから変な照れが出るのよ! そんなのじゃゴールデングローブ賞は|狙《ねら》えないわよ!」  狙うのは文化祭イベント投票ベスト1ではなかったのか。  今日の部室には団員が全員|雁首《がんくび》|揃《そろ》えて集まっていた。|舞台《ぶたい》劇の台本問題が解決したらしい古泉もいて、ハルヒと朝比奈さんの一方的なやりとりをにこやかに眺めている。長門もいた。そして、その長門がちょっと問題だった。 「…………」  |黙《だま》りこくっているのはいつもの通りでまことにけっこうだが|恰好《かっこう》が|怪《あや》しい。なぜか長門は、昨日見せに来たあの魔女的ルックを今日も身につけているのだ。そんなもんは文化祭当日に着ればいいだろうに何だって今からスタンバっているんだ。  ハルヒなんかすっかり長門の黒マントとトンガリ|帽子《ぼうし》が気に入ってしまったようで、 「あなたの役どごろは『悪い宇宙人の魔法使い』に|変更《へんこう》するわ!」  と、さっそく|脚本《きゃくほん》をねじ曲げてしまった。アンテナ型指し棒の先にクリスマスツリーのてっぺんにあるような星形を付け、長門に持たせて|悦《えつ》に|入《い》っているハルヒと、その棒を|握《にぎ》ってじっとしている長門を見ていたら、なんだか俺でさえ、この無口な読書マニアが宇宙人的魔法使いであることに異論がなくなりそうな|案配《あんばい》である。情報生命体の|端末《たんまつ》ってよりはそっちのほうが端的に長門の|特徴《とくちょう》を明示しているかもな。魔法みたいな力を持っているのは確かだ。この目で見たから間違いない。  長門は黒帽子の|縁《ふち》を不意に上げ、相変わらずの無機質な目で俺を見た。 「…………」  他クラスの用意した|衣装《いしょう》を勝手に|撮影《さつえい》用コスチュームにしてしまっていいのか一抹の疑問は発生するが、ハルヒの眼中にはどんなクエスチョンマークも存在しないようだ。 「キョン! カメラの用意はいいわね! 古泉くんはそっちの荷物お願いね。みくるちゃん、なんで机にしがみついてんの? こら、さっさと立って歩きなさい!」  か弱き朝比奈さんの|抵抗《ていこう》は|儚《はかな》いものだった。ハルヒは非力なウェイトレス少女の首根っこをつかんで引きはがすと、ひええとか言ってる|小柄《こがら》な身体をずるずる引きずってドアへ向かった。その後を長門が黒マントの|裾《すそ》を引きずりながらついて行き、最後に古泉が俺にウインクをかまして|廊下《ろうか》へと消えた。  さて俺も行かないといけないのかなと考えていると、 「こらーっ! 撮影係がいないと映画になんないでしょうがっ!」  ハルヒが開いた|扉《とびら》の陰から上半身を見せて顔の半分を口にして|叫《さけ》び、俺はハルヒの|左腕《ひだりうで》にある|腕章《わんしょう》の文字が「|大《だい》|監督《かんとく》」になっているのを認めて、|暗澹《あんたん》たる思いに駆られた。  どうやら本気らしいぞ、この女。  まだ一つも映画を|撮《と》っていない|自称《じしょう》大監督を先頭に、美少女ウェイトレスが顔を地面に向けたまま続いて、その後を|闇色《やみいろ》の|魔法《まほう》少女が影のように歩き、古泉が|紙袋《かみぶくろ》を|抱《かか》えて爽やかに|微笑《びしょう》しつつ……という|奇怪《きかい》な一団と可能な限り|距離《きょり》を置いて俺は|最後尾《さいこうぴ》にいた。  校舎を移動していた時点ですでにもう注目度満点だったが、ハロウィンパーティみたいな一行は校門の外でも人目を集め、中でも視線独り|占《じ》め状態に置かれた朝比奈さんは二分くらい歩いたところでうつむき始め、三分で赤くなり、五分くらいした今では精気が|抜《ぬ》けたような|虚《うつ》ろな足取りでロボット歩きしている。  天変地異の前兆みたいな|機嫌《きげん》の良さで『天国と|地獄《じごく》』のサビをハミングしているのは先導を務めるハルヒである。いつの間に用意したのか右手に黄色のメガホン、左手にディレクターズチェアを|提《さ》げて意気|揚々《ようよう》、まるで草原を西進するモンゴル軍|騎兵《きへい》のような勢いだ。そのままどこに|突撃《とつげき》するのかと思ったら|辿《たど》り着いたのは駅だった。人数分の|切符《きっぷ》を買って来たハルヒは、俺たちに配り終えると、当然のような顔をして改札へ進軍する。 「待て」  言葉を失っている朝比奈さんに代わって俺が異議申し立てをおこなった。俺は通行人の|好奇《こうき》の|眼差《まなざ》しを|独占《どくせん》しているミニスカウェイトレスと、その横で付き人のように|控《ひか》えているチンチクリンの黒衣|娘《むすめ》を指してから、 「この恰好で電車に乗せるつもりなのか?」 「何か問題あるの?」とハルヒはしらばっくれる。「|素《す》っ|裸《ぱだか》なら|捕《つか》まるかもしれないけど、ちゃんと服着てるじゃん。それより何? バニーガールのほうがよかったの? なら先に言いなさいよ。『戦うバニーちゃん(仮)』でもあたしなら全然かまわないわよ」  わざわざウェイトレス衣装を持ってきた|奴《やつ》の言うセリフじゃねえ……ってより、今度のコンセプトはこれだとか言ってなかったか? よく知らないが、コンセプトってのはそう簡単に変更してしまってもいいものなのか。  俺がクリエイターの心情を|垣間《かいま》|見《み》るべく脳ミソを働かせていると、 「一番大切なのは臨機応変に対応することなの。地球の生き物はそうやって進化してきたんだからね。|環境《かんきょう》適合ってやつよ。ぼんやりしてたら|淘汰《とうた》されるだけなのよ! ちゃんと適合しないといけないのっ!」  何に適合すればいいんだろうな。環境に意思があるなら真っ先にハルヒを大気圏の外に放り出しそうだが。  古泉はニタニタ笑っているだけの荷物持ちと化し、長門は例の調子で無言続行、朝比奈さんは声を出す気力もないようで、つまり俺以外の全員が|沈黙《ちんもく》を守っている。  どうにかして欲しい。  ハルヒはその沈黙を自分の言葉があまりの|感銘《かんめい》を生んだからだと|解釈《かいしゃく》したようで、 「ほら、電車来たわ。きりきり歩くのよ、みくるちゃん。本番はこれからなんだからねっ」  同情すべき動機で人を殺してしまった女犯人を連行する|刑事《けいじ》のように、朝比奈さんの|肩《かた》を|抱《だ》いて改札へ歩き出すのだった。  で、だ。降りたところは|一昨日《おととい》と同じ駅で、向かった先も同じ商店街である。もしやと思っていたら訪問する店も同じだった。ハルヒが|交渉《こうしょう》の末にビデオカメラをゲットした電器屋さん。 「約束通り来ましたーっ!」  元気よく入店したハルヒが叫び、奥からオッサンがのっそり出てきて、朝比奈さんに目を留める。 「ほうほう」  オッサンはそれだけでセクハラになりそうな|笑《え》みを広げて我等が主演女優を見た。朝比奈さんは必殺|技《わざ》を出し終えた|格闘《かくとう》ゲームキャラみたいに|硬化《こうか》中である。オッサンはさらに、 「それ、一昨日の子? |見違《みちが》えたね。ほうほう。じゃあ、よろしく|頼《たの》むよ」  何を頼むつもりなんだ。俺は反射的にビクっとする朝比奈さんを背後にかばおうとして前進しかけたところをハルヒに押し|戻《もど》された。 「はいはい、打ち合わせるから、みんなちゃんと聞きなさい」  そしてハルヒは、体育祭のクラブ|対抗《たいこう》リレーで優勝した直後と同じような笑顔を|咲《さ》かせて宣告した。 「これからCM撮りを開始します!」 「こ、ここの店は、えーと、店長さんがとっても親切です。それにナイスガイです。現店主である|栄二郎《えいじろう》さんのお|爺《じい》さんの代からやってます。|乾《かん》電池《でんち》から冷蔵庫までなんでも|揃《そろ》います。えー、……あとは、えーと」  ウェイトレス朝比奈さんが引きつりまくった笑顔で必死の棒読みをしている。その横には「大森電器店」と書かれたプラカードを|掲《かか》げた長門が直立していて、その二人の姿は俺が|覗《のぞ》き込んでいるビデカメのファインダーに映っていた。  朝比奈さんは見事なギコチナイ作り笑いをして、どこにも|繋《つな》がっていないマイクを持っていた。  俺の横には古泉がいて、|微《び》|苦笑《くしょう》しながらカンペを掲げ持っている。カンペはついさっきハルヒが深く考えもせず|殴《なぐ》り書きしたスケッチブックだ。古泉は朝比奈さんのセリフ回しに応じてそれをめくってやっている。  電器店の店頭で、商店街のまっただ中である。  ハルヒはディレクターズチェアに|腰掛《こしか》けて足を組み、難しい顔をして朝比奈さんの演技を観察していたが、 「はいカット!」  |掌《てのひら》にメガホンを|叩《たた》きつけた。 「どうも感じが出ないわね。イマイチ伝わってこないのなぜかしら。なんかこう、グッと来るものがないのよ」  そんなことを言いながら|爪《つめ》を|噛《か》んでいる。  俺はやれやれとばかりにビデオカメラを停止させた。マイクを両手で|握《にぎ》りしめている朝比奈さんも停止している。長門は元から停止しっぱなしで、古泉は|微笑《ほほえ》みっぱなし。  背後、商店街を行く通行人たちは何事かと、ざわめきっぱなしだった。 「みくるちゃんの表情が|硬《かた》いのよね。もっと心から自然な感じで笑いなさい。なんか楽しいことを思い出すの。ってゆうか、いま楽しいでしょ? あなたは主役に抜擢《ばってき》されてるのよ? これ以上の喜びはあなたの人生でも二度とないくらいなのよ!」  いい加減にしろと言いたいね。  昨日のハルヒと店長の対話を二行で表現すると、以下のようになるようだ。 「映画の途中《とちゆう》にこの店のCM入れてあげるからビデオカメラちょうだい」 「いいとも」  そんなハルヒの口車に乗った店長もどうかしているが、CM入り自主映画を作って上映しようなどと考えたハルヒはどうかしすぎである。上映の真っ最中に主演女優がCMまでこなす映画なんて聞いたこともない。せめて映画の|舞台《ぶたい》としてさり気なく背景に映すならまだしも、これでは完全にコマーシャルフィルムだ。 「わかったわ!」  ハルヒが一人で大声を上げている。頼むからお前は何も|解《わか》るな。 「電器屋さんにウェイトレスがいるのが引っかかるのよ」  お前が持ってきた|衣装《いしょう》だろうが。 「古泉くん、その|袋《ふくろ》貸して。そっちの小さいやつ」  ハルヒは古泉から紙袋を受け取ると放心している朝比奈さんの手をつかんだ。そして店内にずかずか入っていき、 「店長ー、奥で|着替《きが》えできそうな部屋ある? うん、どこでもいいわ。なんならトイレでも。そう? じゃあ倉庫借りまーす」  そんなことを言いながら平気で上がり込み、店の奥へと朝比奈さんを連行して消えた。|可哀《かわい》|想《そう》な朝比奈さんはもはや|抵抗《ていこう》の気力も残っていないらしい。ハルヒのバカ力につんのめりながら、おとなしくついていく。この衣装が|脱《ぬ》げるのなら何でもいいと考えたのかもしれないな。  残された俺と古泉、長門はすることもなくただ立っていた。黒装束の長門は身じろぎもせずにプラカードを構えたまま、ハンディカメラを見つめている。よく手が|疲《つか》れないもんだ。  古泉が俺に微笑みかけた。 「このぶんでは僕の出番はなさそうですね。実はクラスの舞台劇でも僕は役者になることになってしまいましてね。多数決で。ですからセリフ覚えに四苦八苦しているのですよ。こちらでは出来るだけセリフの少ない役がいいのですが……。どうです? あなたが主演をしてみては」  キャスティング権を握っているのはどうせハルヒだ。そういう注文は|奴《やつ》につけてくれ。 「そんな|畏《おそ》れ多いことが僕に出来ると思いますか? プロデューサー|兼《けん》|監督《かんとく》に|一介《いっかい》の俳優が口出しするなんて、僕にはおよびもつきませんね。なにしろ涼宮さんの命令は絶対のようですし、|背《そむ》いた後にどんなしっぺ返しを|喰《く》らうかなんて想像したくありません」  俺だってしたくない。だからこうやってカメラマンなんかをやってるんじゃないか。しかも|撮《と》ってるのは映画じゃなくて個人営業|店舖《てんぽ》のローカルCFだ。地域密着にもほどがあるぜ。  |今頃《いまごろ》店の奥では、例のどたばたが|繰《く》り広げられているのだろうな。|嫌《いや》がる朝比奈さんを好きに|剥《む》いているハルヒの|絵面《えづら》。今度は何を着せているのかは知らないが、どうせならあいつが着ればいいんだ。ルックス的に朝比奈さんといい勝負ができるだろうに、自分が主演するという発想はあいつにはないのか? 「お待たせ!」  出てきた二人組のうち、当然のごとくハルヒは制服のままだった。もう一人の姿|恰好《かっこう》を見るや、俺の|脳裏《のうり》に|走馬燈《そうまとう》がよぎった。ああ、もうあれも半年前の出来事だったんだなあ。月日の|経《た》つのは早いもんだよなあ。この半年間いろんなことがあったんだよなあ。草野球とか|孤島《ことう》とかあれとかこれとか、今となってはいい思い出かもなあ。……な、わけねえだろ。  |懐《なつ》かしの朝比奈みくるコスプレ第一|弾《だん》、ハルヒとともに校門に|出没《しゅつぼつ》し、全校の話題をさらい朝比奈さんの精神に外傷を負わせた|露出《ろしゅつ》過多のコスチューム。  非の打ち所のない完全にして無欠のバニーガールが|頬《ほお》を染めつつ目を|潤《うる》ませつつ、よろりとしながらハルヒの横でウサ耳を|揺《ゆ》らしていた。 「うん、これでバッチリ。やっぱ商品の|紹介《しょうかい》にはバニーよね」  わけの解らないことを言いながらハルヒは朝比奈さんを上から下まで|眺《なが》め回し、満足げな|笑《え》|顔《がお》満開、朝比奈さんは|哀愁《あいしゅう》全開で半開きの口から|魂《たましい》が出かかっている。 「さ、みくるちゃん。最初からやり直しね。そろそろセリフも覚えたでしょ。キョン、初っぱなから巻き|戻《もど》して」  このぶんでは|誰《だれ》もセリフを聞くことはないだろう。上映の最中、朝比奈さんのバニー姿に|釘《くぎ》|付《づ》けになるに|違《ちが》いないね。スクリーンに穴が|空《あ》かなければいいのだが。 「じゃ、テイク2!」  ハルヒが高らかに|叫《さけ》び、メガホンをばっちんと|叩《たた》いた。  半泣き半笑いの朝比奈さんをハルヒが思うままに操作する電器店CMが何とか|終了《しゅうりょう》した。まるで悪徳マネージャーに|操《あやつ》られる外人レスラーのようなアングルだ。  しかし、ここで俺たちが|訪《おとず》れたスポンサーとやらはもう一|軒《けん》あったことを思い出さねばならない。思い出すまでもないか。ハルヒは最初からそのつもりだったんだな。 「ひぃ」とか「ぴぃ」とか可愛らしい悲鳴を|漏《も》らすバニー朝比奈さんを引きずって、ハルヒは商店街のど真ん中を歩いている。その|背後《はいご》|霊《れい》になっている長門はとことん無感動に|魔女《まじょ》ルックのまま、俺と古泉は並んでブラブラと。  せめてもの|慰《なぐさ》めとして、朝比奈さんの|肩《かた》には俺のブレザーがかかっている。かえって目立っているかもしれない。なんかもう、|特殊《とくしゅ》な|趣味《しゅみ》の世界である。断っておくが俺の趣味ではないぜ。  到着した二軒目の模型店でも似たようなことが繰り返された。|衆人《しゅうじん》|環視《かんし》の中、朝比奈さんは|涙目《なみだめ》を俺——つまリカメラ——に向けながら、 「こ、この模型店さんは、|山土《やまつち》|啓治《けいじ》さん(28)が周囲の反対を押し切り、去年|脱《だつ》サラして開店オープンしました。趣味がこうじたばっかりに……やっちゃったって感じです……。案の定、思うように売上げは|伸《の》びず、今年度前期は昨年対比で|伸長率《しんちょうりつ》八十%、折れ線グラフは|右肩《みぎかた》下がり……なのでえ! |皆《みな》さんどんどん買いに来てあげてくださぁい!」  朝比奈さんの|語尾《ごび》は完全に裏返っている。にしても、こんなナレーションに山土店主はオーケーを出したのか? どうもヤケになってるとしか思えないな。こんなこと高校生に思われたくもないだろうが。  バニーガールは|強引《ごういん》に持たされたアサルトライフルの|銃口《じゅうこう》を上に向け、 「人に向けて|撃《う》ってはいけませーん。空き|缶《かん》でも撃って|我慢《がまん》しましょうっ」  その後ろでは、長門がどこを見ているのか|解《わか》らない目で「ヤマツチモデルショップ」と書かれたプラカードを|捧《ささ》げている。シュールな光景だった。朝倉涼子は|普通《ふつう》に感情のある人間に見えたから宇宙人製人造人間が全員こんなロボットみたいな奴ばかりではないらしく、長門が無感情なのはそういう仕様なのだろう。  さらに朝比奈さんはライフル銃を地面に置いた空き缶に向けて乱射しつつ、 「ひええっ。当たったらとても痛いと思いますっ。ひょええっ」  |怯《おび》えながらアルミ缶を|蜂《はち》の|巣《す》にするという|模範《もはん》|射撃《しゃげき》までおこなって、|野次馬《やじうま》たちのどよめきを|誘《さそ》っていた。命中したのは一割くらいのもんだったが。  こんな映像をDVカセットに録画してると申しわけない気分になってくるね。朝比奈さんにも、このビデオカメラの開発設計者にも。こんなことをするために世に出てきたわけではあるまいに。  そんなこんなで、この日はマヌケなCM|撮《ど》りだけで終わった。  俺たちはいったん学校まで|舞《ま》い戻り、部室にて次の|撮影《さつえい》スケジュールをハルヒから聞いているところだ。 「明日は土曜日で休みだから、朝から全員集合ね。北口駅前に九時には来ていること。いいわねっ!」  ところで、コマーシャルシーンだけですでに十五分以上|費《つい》やしているわけだが、本編はどれくらいの長さになるんだ? 三時間もの大作を文化祭で流しても誰も最後まで|観《み》てくれそうにないぞ。回転率も悪そうだしさ。  それに、と俺はひしゃげた朝比奈さんを見ながら考えた。行きはウェイトレス、帰りはバニーガールで電車にまで乗った朝比奈さんはやっとのことで制服に|着替《きが》え終え、ぱたりと|倒《たお》れるようにうずくまった。このままの調子で撮影が進んだら主演女優が|途中《とちゅう》で|寝込《ねこ》んでしまう|恐《おそ》れがある。  俺はテーブルに額を当ててくったりしている朝比奈さんの代わりに古泉が|淹《い》れた|玄米《げんまい》茶を飲み干してから、 「なあハルヒ、朝比奈さんの|恰好《かっこう》だがもうちょっと何とかならないか? もっとこう、戦うんであれば戦いそうな|衣装《いしょう》があるだろうよ。|戦闘《せんとう》服とか|迷彩《めいさい》服とか」  ハルヒは星マーク付きアンテナ棒をちっちっと|振《ふ》った。 「そんなんで戦っても意外性がないじゃない。ウェイトレスが戦うから、おおっ——と思わすことができるのよ。ツカミが|肝心《かんじん》なの。コンセプトよ、コンセプト」  コンセプトの意味解って言ってるんだろうか。俺は|嘆息《たんそく》するしかない。 「まあ……。それはいいけどさ。なんでわざわざ未来から来たことにするんだ? 別に未来人じゃなくてもいいじゃねえか」  ぴく、と|突《つ》っ|伏《ぷ》す朝比奈さんの肩が|揺《ゆ》れ動いた。ハルヒは気付かずへこたれない。 「そんなもんはね、後から考えればいいのよ。ツッコマれたときに考えたらすむことだわ」  だから俺が今ツッコンでるんじゃねえか。答えろよ。 「考えても思いつかなかったら無視しときゃいいのよ! どうだっていいじゃないの。|面白《おもしろ》ければなんだっていいのよ!」  それは面白かった場合だけの話だろうが。お前の撮ろうとしている映画が面白くなる確率はどれほどのものなんだ? 面白がるのが|監督《かんとく》のみなんてのを撮っても仕方がないだろ。ゴールデンラズベリー賞シロウト部門ノミネートでも|狙《ねら》ってるのか? 「なにそれ。狙うのは一つよ。文化祭イベントベスト投票一位よ! それに、できたらゴールデングローブも。そのためにもみくるちゃんにはそれなりの恰好をしてもらわないと困るの!」  |誰《だれ》も困りはしないと思うのだが、どうやらハルヒが観て|激怒《げきど》した映画とやらはいつの年かは知らないがゴールデングローブ賞受賞作らしいな。  もう一度ため息をついて、ふと横を見る。黒装束の長門は部室に入るなり|隅《すみ》の方に引っ込んでお|馴染《なじ》みの読書にふけっていた。こいつはあれか、この部屋にいるときは本を読んでないと死ぬのか? 「待てよ」  本好き宇宙人を見ているうちに思いついた。 「おい、|脚本《きゃくほん》をまだもらってないぞ」  それどころかストーリーすら知らされていない。|解《わか》っているのは朝比奈さんが未来ウェイトレスで古泉がエスパー少年で長門が悪い宇宙人の|魔法《まほう》使《つか》いという設定だけだ。 「だいじょうぶ」  ハルヒは何のつもりだろう、いきなり目を閉じて、棒の星マークの先で自分のこめかみを突っついた。 「ぜーんぶ、こん中にあるから。脚本も絵コンテもバッチリドンドンよ。あんたは何も考えなくていいわ。あたしがカメラワークを考えてあげるから」  |随分《ずいぶん》な言いぐさだな。お前こそ何も考えずにぼんやり窓の外でも|眺《なが》めてりゃいいんだ。マシな表情さえしてれば、その様子だけで朝比奈さんとチェンジできるぜ。 「明日よ、明日! みんな、気合い入れていくわよ。栄光を勝ち取るにはまず精神論からよ。それがお金をかけずに勝利する手っ取り早い方法なの。心のタガが外れたとき、自分でも知らなかった|潜在《せんざい》能力が|覚醒《かくせい》して思わぬパワーを生み出すわけよ。そうよね!」  そりゃバトルマンガの逆ギレ合戦的展開ではそうかもしれないが、いくら精神論とナショナリズムを振りかざしたところでサッカー日本代表が|W杯《ワールドカップ》で優勝するにはまだ時間がかかりそうだぞ。 「じゃ、今日は解散! 明日をお楽しみにっ! キョン、カメラとか小道具とか衣装とか、荷物忘れちゃダメよ。時間厳守!」  言い残し、ハルヒは勇ましく|鞄《かばん》を振り回して出て行った。|廊下《ろうか》を遠ざかる『ロッキー』のテーマを聞きながら、俺はうずたかく積まれた荷物とやらを|恨《うら》めしく眺めた。この監督の横暴をどこの組合に|訴《うった》え出ればいいのだろうか。  実際のところ、この日までの俺たちの学園ライフは、ハルヒが異常なまでの情熱を映画にかけて、かけたついでに段々|脱線《だっせん》していくというだけの、単なる|平凡《へいぼん》な日常が連続しているにすぎなかった。全国の学校をくまなく調査でもすれば、似たようなことをしている一団は俺たちの|他《ほか》にもいるだろう。早い話が、『|普通《ふつう》』なのだ。  俺は長門の親類に|襲《おそ》われたりしてないし、朝比奈さんと時を|駆《か》けてもいないし、発光性の青カビみたいな|巨人《きょじん》|野郎《やろう》も出てきていないし、バカみたいな真相が待ち受ける殺人事件も起こっていない。  めちゃ普通の学園生活だ。  |迫《せま》り来る文化祭という祭り事カウントダウンに|踊《おど》らされ、いささかハイになったハルヒがアドレナリンをせっせと|分泌《ぶんぴつ》して頭に飼っているハムスターを|鞭《むち》でシバきたて輪っかをマッハで回しているようなものだ。  要するに、いつものことなのだった。  ——この日まではな。  思うに、これでもまだハルヒは自分なりにセーブしていたんだろう。よく考えたら、まだ映画なんて一コマも|撮《と》っていない。デジタルビデオテープに記録してあるのは、朝比奈さんがバニースタイルで地元商店街の電器店とプラモ店を|紹介《しょうかい》するというスポンサー対策にすぎない。ハルヒ総指揮総|監督《かんとく》によるSOS団プロデュース映画作品の|全貌《ぜんぼう》はまったく明らかになっておらず、|片鱗《へんりん》すら出てこず、ストーリーラインすら不明なのであった。  不明のままのほうがよかったな。  上映するのは朝比奈さんの商店街リポート映像集でかまやしない。と言うか、そっちの方が客を呼べるんじゃないか? 地域|振興《しんこう》策にもなって一石二鳥だろうさ。いやもう、いっそのこと朝比奈みくるプロモーションビデオクリップにしてしまえよ。俺はそのほうが|嬉《うれ》しいぞ。|撮影《さつえい》担当としての、これは俺の本音だ。  しかしながら、ハルヒがそれで満足などしないのも解りきっていた。こいつは言い出したことは必ず|完遂《かんすい》する。やると言ったらやるのだ。|途中《とちゅう》で投げ出したりなんかはしないのだ。なんと|迷惑《めいわく》な有言実行だろうね。  てなわけで、この翌日からまたまたけったいな事態に俺たちは|陥《おちい》ることになったのだが、いやまったく、何と言うべきかな。ハルヒは何と言ってたっけ?  心のタガが外れたとき、自分でも知らなかった潜在能力が覚醒して思わぬパワーを生み出して——とかだったか。  なるほど。  でもなあ、ハルヒ。  よりにもよって、お前が覚醒することはないじゃないか。  それもお前の自覚なしにさ。 [#改ページ]  第三章  土曜。その日。  俺たちは駅前に集合した。家にあった一番でかいリュックにあらゆるものを|詰《つ》め込んで駅まで歩いていった俺を、他の四人が|勢揃《せいぞろ》いして待ち受けていた。  ハルヒがカジュアル、朝比奈さんがフェミニンスタイルで並んでいる姿は遠くからでも目を引く。全然似ていない|姉妹《しまい》みたいな感じ。上級生のはずなのに妹みたいに見える朝比奈さんは、服装だけが少し年上の|装《よそお》いだ。  変人三人に囲まれていた朝比奈さんは、俺を見つけると、|幾分《いくぶん》ホッとしたように|会釈《えしゃく》して小さく手を|振《ふ》ってくれた。うむ。 「おっそいわよ!」  叫んでいるがハルヒは今日も上機嫌だった。こいつが手ぶらなのはメガホンと監督用折りたたみ|椅子《いす》が俺の荷物に|含《ふく》まれているからである。 「まだ九時前だぜ」  俺は|仏頂面《ぶっちょうづら》で言って、|両脇《りょうわき》を見る。長門の|陶磁器《とうじき》顔と、古泉のさわやかスマイル。それにしても学校でもないのに長門が制服なのは|普段《ふだん》と同じだが、古泉までもが制服姿なのはどうしたことだ。 「これが僕の撮影|衣装《いしょう》なんだそうですよ」  と、古泉は答えた。 「昨日そのように言われましてね。役の上では、僕は|一介《いっかい》の高校生に身をやつした超能力《ちょうのうりょく》者ということになっていますから」  そのまんまじゃねえか。  俺がカメラやら小道具やらでかさばるバッグを降ろして額を|拭《ぬぐ》っていると、ハルヒが遠足前の小学生みたいな|笑顔《えがお》で、 「キョン、あんた一番後に来たから|罰金《ばっきん》ね。でもまだいいわ。これからバスに乗るから。バス代くらいはあたしが出したげる。必要経費ってやつよ。あんたは全員に昼ご飯を|奢《おご》りなさい」  勝手に決めつけ、片手を振りながら、 「さあみんな! バス停はこっちよ! さっさとついてきなさい!」  その|腕《うで》の|腕章《わんしょう》が「超|監督《かんとく》」になっているのを俺は|見逃《みのが》さなかった。ついにハルヒの中では大監督すらも|超越《ちょうえつ》してしまったらしい。よほど|凄《すご》い映画にするつもりなんだろう。重ねて言うが、俺は朝比奈さんのPVを撮っていたほうがよっぽど楽しいのだが。  バスに|揺《ゆ》られて三十分、山の中にある停留所で降りて、それからさらに三十分。俺たちはハイキングコースをえっちらおっちら登っていた。  どこにでもありそうな森林公園だった。生まれも育ちもこの辺で暮らしている俺には昔から|馴染《なじ》みの場所だ。小学生の|頃《ころ》は毎年のように遠足と言えば近場の山登りだったからな。  公園とは名ばかりで、山の中腹にムリヤリ開けた空間を作り適当な|噴水《ふんすい》があるような、何を好きこのんでこんな所まで登らねばならんのだと苦言の一つでも|呈《てい》したくなるほどの、何にも無いところである。喜んでいるのは、まだ|娯楽《ごらく》のなんたるかを知るすべもないガキどもくらい、そのガキどもを連れてきたと|思《おぼ》しき家族連れの姿を何組も見かけることが出来る。  俺たちは噴水を中心とする広場の|片隅《かたすみ》に|陣取《じんど》って、そこを|撮影《さつえい》基地とすることにした。手ぶらのハルヒは元気を有り余らせていたが、俺はすっかりへばっていた。山道の|途中《とちゅう》で古泉に半分くらいの重量を押しつけなければ、マジで行き|倒《だお》れていたかもしれん。俺がワンゲルの装備みたいなバッグに|凭《もた》れてゼイゼイ言ってると、 「あの、飲みます?」  目の前に小さなペットボトルが差し出され、そのボトルは朝比奈さんの手に|握《にぎ》られている。 「あたしの飲みかけでよければ……」  神のウーロン茶だ。おそらく天上の味がするに|違《ちが》いないね。良いも悪いもない。飲まないと|天罰《てんばつ》が下ると言うものだ。俺が遠慮なく受け取ろうとしたとき、邪悪な悪魔の手が天使の腕を|払《はら》いのけた。朝比奈さんからウーロン茶をひったくったハルヒが、 「後にしなさい、後に。みくるちゃん、今はこんな雑用係に水分補給させてる場合じゃないの。急がないと、絶好の天気が|翳《かげ》ってくるかもしれないんだからね。さっさと撮影を始めるわよ」  朝比奈さんは、おっとりと目を丸めた。 「え……? ここで|撮《と》るんですか?」 「当たり前じゃないの。何しに来たと思ってるのよ」 「じゃあ、あたし|着替《きが》えなくていいんですね? ここ、着替える場所ないし……」 「場所ならあるわよ。ほら、周り一面がそうよ」  ハルヒが指でぐるりと示した場所には、緑の木々に囲まれた山並みが整列していた。 「ちょっと奥に行けば|誰《だれ》も来やしないわ。天然の|更衣《こうい》室よ。さ、行きましょ」 「ひひ、ひゃあーっ。た、助け」  助けるヒマもなく、ハルヒは森の奥に朝比奈さんを引きずって消えた。  再登場した朝比奈さんは、撮影コスチュームであるところのピチピチウェイトレス服を|身体《からだ》に|貼《は》りつけ、何だか毛先があちこち飛び跳ねたややこしい|髪型《かみがた》をして|潤《うる》みきった|瞳《ひとみ》を道ばたに生えている秋の花に向けていた。  その片方の目の色が|比喩《ひゆ》ではなく違っている。左目だけが青い。なんだこりゃ。 「カラーコンタクトよ」  ハルヒが解説する。 「左右の目の色が違うっていうのもけっこう重要なのね。ほら、たったこれだけのことでググっと神秘性が増すでしょ。これさえしてれば間違いはないの。記号よ、記号」  背後から朝比奈さんの|顎《あご》をつかんで、小さな顔を|傾《かたむ》けさせる。されるがままの朝比奈さんは|茫洋《ぼうょう》たる目つきである。 「この青い目には秘密があるわけ」とハルヒ。 「そりゃまあ、意味もなく色が違っていても話にならんからな」  今にも|倒《たお》れそうな朝比奈さんの|疲《つか》れた顔だけでもググっとくるけどね。 「それで、どんな秘密があるんだ、そのカラーコンタクトに」 「まだ秘密」  ハルヒはにんまりしながら答え、 「ほら、みくるちゃん。いつまでグンニャリしてんの。しっかりしなさい。あなたは主演なのよ。プロデューサーと|監督《かんとく》の次に|偉《えら》いのよ。しゃんとするのしゃんと!」 「ふえー」  悲しい声を出して、朝比奈さんはハルヒの命ずるままにポーズを取る。ハルヒは朝比奈さんに|拳銃《けんじゅう》(モデルガンだよ)を握らせ、 「女暗殺者みたいな感じを出しなさい。いかにも未来からきた感じで」  などと無理な注文をつけている。朝比奈さんはおずおずとグロックを構えて、|精《せい》|一杯《いっぱい》の流し目を俺——カメラだな——にくれた。このいかにも無理してる感が|堪《たま》らなくいいんだ、これが、いやマジで。  それにしても意味もなくアクティビティ|溢《あふ》れる|奴《やつ》だ。|観《み》た映画がつまらんと思うことは俺だってよくあるが、なら自分がやったほうがマシだとばかりに映画を撮ろうなんてことは思いもしないしやり方だって|解《わか》らん。仮に撮ったとして、それが本当にマシなものになるとも思っていない。しかしハルヒは|真剣《しんけん》に自分に監督の才があると思い込んでいるらしい。少なくとも深夜にやってたマイナー映画よりは|素晴《すば》らしいものを作る気でいることは確かだ。その自信は何に裏打ちされているのだろう。  ハルヒは黄色いメガホンを|振《ふ》り回しながら|叫《さけ》んでいる。 「みくるちゃん! もっと照れをなくしなさい! 自分を捨てるのよ! 役にハマってなりきればいいのよっ! 今のあなたは朝比奈みくるじゃなくて朝比奈ミクルなのっ!」  ……もちろん、ハルヒの自信が何の裏付けもないのは知れたことだ。|根拠《こんきょ》もなく自信満々で周囲の|秩序《ちつじょ》をカオス化するのが、こいつ、涼宮ハルヒの持って生まれた機能なのだ。でなければ大それた|腕章《わんしょう》なんかつけて偉そばるわけがない。  監督ハルヒの指示の|下《もと》、記念すべきシーン1の|撮影《さつえい》が始まった。  つっても、広場をひたすら走っている朝比奈さんを横から撮っているだけだ。これがオープニングなのだという。せめて|脚本《きゃくほん》でも書いてくるのかと思ったか、ハルヒはそんなもんはないと断言しやがった。 「ヘタに文書にして内容が|漏《も》れるとマズいじゃない」  というのがその理由である。どうやらこの映画は香港形式で進められるようだった。なんかもう、すげーぐったりして来た俺だったがカメラレンズの向こうで二丁拳銃を|握《にぎ》りしめ、女走りで息を切らしている朝比奈さんよりはまだマシかもな。  俺たちが見守る中、朝比奈さんは右に左にふらふらしながら走り続け、テイク5でようやく監督のオッケーが出た|途端《とたん》にへたり込んだ。 「ひい……ひい……」  両手を地面について背中を上下させるウェイトレスを|顧《かえり》みず、ハルヒは|脇《わき》に|控《ひか》える長門に指示を送った。 「じゃ、次は有希とみくるちゃんの|戦闘《せんとう》シーンね」  長門はお気に入りの黒装で、つつつとカメラの前まで移動する。制服の上から暗幕みたいなマントを|被《かぶ》りトンガリ黒|帽子《ぽうし》を頭に|載《の》せるだけだから、朝比奈さんのように|茂《しげ》みに連れ込まれることがなかったのは幸いなことだった。もっとも長門ならどこでも平気な顔で|着替《きが》えの一つぐらいしそうではある。配役を|交換《こうかん》してみてはどうかな。長門がウェイトレスで、朝比奈さんが|魔法使《まほうつか》い。どっちも不思議と似合いそうだぞ。  ハルヒは朝比奈さんと長門を三メートルくらい|離《はな》れて向かい合わせに立たせ、 「みくるちゃん、有希を思うさま|撃《う》ちなさい」 「えっ」と朝比奈さん。走ったおかげで乱れた|後《おく》れ毛を揺らしながら、「でも、これ人を撃っちゃダメなんじゃ……」 「だいじょうぶよ。みくるちゃんの|腕《うで》じゃどうせ当たるわけないし、仮に当たりそうでも有希なら|避《よ》けるわ」  長門は|黙《だま》ったまま、星付きアンテナをじっと持って立っていた。  それはまあ、俺だってそう思う。長門なら|銃口《じゅうこう》を額に押し当てられた状態で引き金を引いても|素《す》で避けそうだ。 「あの……」  |恐《こわ》い料理長に割った皿の報告をする新米メイドのような顔で、朝比奈さんは長門をこわごわと見上げる。 「いい」と長門は|応《こた》えた。そしてアンテナをくるりと回し、「撃って」 「ほら、いいって。じゃんじゃか撃ちなさい。言っとくけど同時に撃つんじゃなくて|交互《こうご》に撃つのよ。それが二丁|拳銃《けんじゅう》の基本だから」  古泉がレフ板を頭上に構えている。ハルヒがどこからかは知らないが持ってきたのだ。|今頃《いまごろ》写真部あたりが|盗難《とうなん》届を出しているかもしれない。しかし古泉、お前主役じゃなかったのか? 「|環境《かんきょう》には臨機応変に適合しませんとね。僕は撮影される側にいるより、こっちのほうが|性分《しょうぶん》に合っているんですよ。このまま裏方になれないものかと、昨日から考えているんですが……」 「えいっ」  朝比奈さんは重そうにモデルガンを構え、目をつむって連射した。その様子を俺が横から撮影する。BB|弾《だん》の|軌跡《きせき》はよく見えなかったが、長門が表情一つ変えずに|突《つ》っ立っているところを見ると、本当にまったく命中していないようだった。魔法で避けているからか……と思い始めた頃に、長門はゆっくりと指し棒をあげ、顔の前でちょろりと振った。こつんと音がして地面に|弾《たま》が転がり落ちる。|眼鏡《めがね》なしになったのに|凄《すご》い視力も相変わらずだな。  長門は|瞬《まばた》きしないで銃口を見ている。いつもだってあんまりしないが、それだって「たまには瞬かないと不自然だから」と言いたげな瞬きで、そっちのほうがよほど不自然である。|瞳孔《どうこう》開きっぱなしで歩こうが天上をぶち破ろうが|瞬間《しゅんかん》移動しようが、もう俺はちっとも|驚《おどろ》きやしないだろう。だから今も驚いていない。  長門は|壊《こわ》れたワイパーみたいな動きで、たまに指し棒を振り、その|度《たび》にBB弾がパラ……パラ……と落っこちた。  それにしても単調な戦闘シーンだ。長門は棒しか動かさないし、朝比奈さんは二丁のグロックだかベレッタだかをぷしゅぷしゅ撃っているだけだし、しかも当たってないし、だいたいハルヒは「思うさま撃て」と言っただけでセリフを教えていない。聞こえてくるセリフは朝比奈さんの「ひっ、ほわっ、こわっ」という小さな|嬌声《きょうせい》だけである。  なんだか、|闘《たたか》いの前にお|互《たが》い|致命傷《ちめいしょう》は|避《さ》けようぜと打ち合わせておいたハブとマングースのようなやる気のないバトルシーンだった。 「うん、まあこんなもんかしら」  朝比奈さんの拳銃が弾切れになったところで、ハルヒがメガホンで|肩《かた》たたき。俺はハンディビデオを降ろして、ディレクターズチェアの上に|胡座《あぐら》をかいているハルヒに近寄った。 「おいハルヒ。これのどこが映画だ。何の話なんだかさっぱり|解《わか》らねえぞ」  涼宮|超監督《ちょうかんとく》はチラリと俺を見上げ、 「いいの。どうせ編集段階で切ったり|繋《つな》げたりするつもりだし」  |誰《だれ》がするんだ、その切ったり繋げたりをさ。俺の役職の所に「編集」とか書いてあったような気もするが。 「せめてセリフだけでも入れろよ」 「いざとなれば音声は消してアフレコするわ。効果音とかBGMも入れないといけないしね。今は深く考えなくていいのっ!」  考えようにも、ストーリーがお前の頭の中にしかないんだから俺たちが考えることなど何もない。せめて俺は朝比奈さんに対するハルヒのセクハラを最小限にするべく注意するくらいだった。俺以外の男のボディタッチ厳禁。それが俺の基準である。文句はないよな? 「それじゃ次のシーンね! 今度は有希の|反撃《はんげき》よ。有希、魔法を使ってみくるちゃんをいてこましちゃいなさい!」  長門は黒帽子のひさしの|影《かげ》の中から、|衣装《いしょう》より黒い|瞳《ひとみ》を俺に向けた。俺にしか解らないような角度で首を|傾《かたむ》げる。なんとなく伝わった。長門は「いいの?」と|訊《き》いているようだ。  もちろん答えは「ノー!」だ。魔法はともかく、朝比奈さんを痛めつけるようなことは許可できないね。ほら、朝比奈さんが青くなってぶるぶる|震《ふる》えているじゃないか。  当然ハルヒは長門が不可解なタネ無しマジックを使えるとは知らない。こいつが言ってるのは、あたかも魔法を使っているような演技をしろということだろう。  長門もちゃんとわきまえてくれたようで、「…………」と無言をセリフとしながら、アンテナ棒を持ち上げてユラーリユラリと、まるでコンサートで観客がサイリウムを振るみたいな動作をおこなう。 「まあ、いいわ」とハルヒ。「このシーンにはVFXを使うから。キョン、あとで有希の棒から光線が出てる感じでお願いね」  どうやったらそんなビジュアルエフェクトがかませるのか、俺にそんな技術はないぞ。ILMから社員と機材を借りてくる予定があるなら別だが。 「みくるちゃんはそこで悲鳴! そして苦しそうにぶっ|倒《たお》れなさい」  しばらくオロオロしていた朝比奈さんは、「……きゃ」と|呟《つぶや》くように言ってパタリコと前向きに倒れた。両手を投げ出して倒れ|伏《ふ》す朝比奈さんの|傍《かたわ》らで、その|魂《たましい》を入手したばかりの死神のような長門が立っている光景。それを|撮影《さつえい》する俺に、俺の横でいつまでもレフ板上げっぱなしの古泉。  そろそろ周りの家族連れの視線が痛くなってきた。  |慈悲《じひ》深くも、しばしの|休憩《きゅうけい》時間をハルヒが|与《あた》えてくれたため、俺たちは車座で地面に座り込んでいた。  ハルヒは俺が|撮《と》った映像を|繰《く》り返し再生しては、もっともらしい顔でうーんとか|唸《うな》っている。  朝比奈さんと長門の間には、ちょこちょこと寄ってきた子供が数名いて、「これ何のテレビ?」とか訊いていた。朝比奈さんは弱々しく|微笑《ほほえ》むだけで首を振り、長門は完全に無視して大地と一体化していた。  いったい自分の撮っている映像が何のシーンなのかハルヒが明かさないものだから全然解らんのだが、次に超監督は近くの神社に行こうと言い出した。もう休憩終わりか。 「|鳩《はと》がいるの」  なのだそうだ。 「鳩がバサバサ飛び立つのを背景に歩いているみくるちゃんを撮るのよ! できれば全部白い鳩にしたいんだけど、この際どんな色でも目をつむるわ」  |土鳩《どばと》しかいないと思うけどな。すでにヨレヨレになっている朝比奈さんの|腕《うで》に自分の腕を|絡《から》め(逃げないようにだろう)、ハルヒは森林公園内を横断して県道に向かうようだ。俺は古泉と機材を分け合い、ジャングルの取材に|訪《おとず》れた撮影スタッフの現地人シェルパみたいな|面持《おもも》ちで後をつけて、着いたところが山の中のでっかい神社だった。久しぶりに来たなあ。それこそ小学生時の遠足以来だ。  |境内《けいだい》の「エサやり禁止」という看板の前で、ハルヒは|枯《か》れ木に花を|咲《さ》かそうとするがごとく堂々とパン|屑《くず》をまいていた。日本語が読めないとしか思えない。  たちまち地面を|埋《う》め|尽《つ》くす勢いで鳩の群れが押し寄せ、後を絶つことなく空から|舞《ま》い降りてくる。鳩色になった神社の境内は、よく見るまでもなくかなり不気味だ。その鳩のカーペットの中に朝比奈さんが一人で立たされている。足元をつつき回されて|唇《くちびる》を震わせるウェイトレス。その姿を俺が正面から撮っていた。何やってんだ、俺。  画面の外ではハルヒが朝比奈さんから取り上げたイーグルだかトカレフだかの|拳銃《けんじゅう》を|携《たずさ》え、すちゃっとセイフティを解除した。何をするのかと思っていたら、いきなり朝比奈さんの足元に向かって|射撃《しゃげき》、 「ひえええっ!」  鳩に|豆鉄砲《まめでっぽう》を|喰《く》らわす|絵面《えづら》がリアルで拝めるとは思わなかった。動物愛護協会がすっ飛んできそうな|蛮行《ばんこう》に、平和の|象徴《しょうちょう》たちは|一斉《いっせい》にグルッポとか鳴きながら舞い上がる。 「これよ! この絵が欲しかったのよね。キョン、ちゃんと撮ってなさいよ!」  一応カメラは回っているから撮れているだろ。右往左往して飛び回る鳩の|渦《うず》の中央で、朝比奈さんは頭を|抱《かか》えてしゃがみ込んでいる。 「みくるちゃんコラーっ! 何座ってんの!? あなたは飛んでる鳩をバックにゆっくりとこっちに歩いてくるのよ! 立ちなさあい!」  そんなシーンを|悠長《ゆうちょう》に撮っている場合ではなさそうだ。俺が|覗《のぞ》いているファインダーの|最奥《さいおう》から、動物愛護協会の代わりに神社の|神主《かんぬし》らしきジーサンがすっ飛んできたからである。|袴《はかま》姿だから神主の関係者で合ってると思う。俺が説教の一つでも|覚悟《かくご》していると、ハルヒは|躊躇《ためら》うことなく最終手段に出た。  手にしていたCZだかSIGだかいうモデルガンを、そのジーサンに向けて|撃《う》ち始めたのである。|灼《や》けた鉄板に立たされたような|踊《おど》りを見せる神主(多分)。シルバーサービス|振興《しんこう》会から|抗議《こうぎ》が来そうな|振《ふ》る舞いだった。 「|撤収《てっしゅう》ーっ!」  やおら叫んだハルヒは、身を|翻《ひるがえ》して走り出した。いつ移動したのか、長門はとっくに遠く|離《はな》れた鳥居の下で俺たちを待っている。|放《ほう》っておけば逃げ|遅《おく》れそうな朝比奈さんを、俺と古泉が|両脇《りょうわき》から抱えて荷物と|一緒《いっしよ》に持ち上げた。  |監督《かんとく》が逃げ出したんだ。主演女優をスケープゴートにするわけにはいかんだろ。  十分後、俺たちは道沿いにあったドライブインみたいな食事|処《どころ》の一角にいた。俺がなぜか|奢《おご》ることになっている昼飯である。 「|惜《お》しいことをしたかもしんないわね。あの老神主を敵役にしてボコったほうがアドリブとしてはよかったんじゃないかしら」  ハルヒが犯罪ギリギリなことをほざいている。  朝比奈さんはざる|蕎麦《そば》を三本ほど|啜《すす》った後、テーブルに|突《つ》っ|伏《ぷ》していた。 「みくるちゃん。あなた小食ねえ。そんなんじゃ大きくなれないわよ。胸ばっかり育ってもコアなマニアに喜ばれるだけよ。ちゃんと背も|伸《の》ばさないと」  言いつつ、ハルヒは朝比奈さんの蕎麦を横取りしてずるずると喰っていた。  俺は知っている。あと何年後かは知らないが、朝比奈さんは顔もボディもミス太陽系代表に選出されるくらいの成長を|遂《と》げるのだ。本人も知らないみたいだけどね。  古泉はずっと|苦笑《くしょう》していた。長門は|黙々《もくもく》とミックスサンドを口に運んで|頬《ほお》を|膨《ふく》らませている。俺は喰い終えたミートソースの皿を|脇《わき》に押しやって、二人前の昼食を平らげているハルヒに言った。 「あの神主が学校に苦情でも入れたらどうするつもりだ。古泉の制服で、俺たちの正体はバレバレだぞ」 「だいじょうぶじゃないかしら」  ハルヒはどこまでも楽観的である。 「|距離《きょり》あったし、よくあるブレザーだし、何か言われてもトボケときゃいいのよ。他人の空似よ。BB|弾《だん》だけじゃ|証拠《しょうこ》になんないわ」  俺は証拠の|詰《つ》まっているビデオカメラを見た。この映像を上映なんかしたら一発でネタバレすると思うのだが。神社まで来て鳩に囲まれているウェイトレスがこの|近隣《きんりん》に二人以上もいるとは思えない。 「それで、次はどこに行くんだ?」 「もう一度公園の広場に|戻《もど》りましょ。よく考えたらあれだけじゃ|戦闘《せんとう》になってないわ。観客のハートを|鷲《わし》づかみにするには、もっと激しいアクションが必要ね。うん、イメージが|湧《わ》いてきたわ。森の中を必死に|逃《に》げるみくるちゃんと、それを追う有希。そしてみくるちゃんは|崖《がけ》から落ちてしまうの。そこにたまたま通りがかった古泉くんが助けるっていう展開はどうかしら」  行き当たりばったりの展開だな。こんな山の中をたまたま通りかかる制服姿の男子高校生ってのは何者だ。それだけで|怪《あや》しすぎるぞ。それにハルヒのことだから本当に朝比奈さんを崖から突き落とすかもしれない。つーかハルヒ、お前が落ちろ。朝比奈さんのスタントとしてこの|衣装《いしょう》を着込め。まあ、少し胸が足りないかもしれないが……。  そんなことを考えている俺を、ハルヒは|眉《まゆ》を|吊《つ》り上げて流し目での|一睨《ひとにら》み。 「あんたなんか想像してる? まさかあたしのウェイトレス姿を|妄想《もうそう》してるんじゃないでしょうね」  実に的確に言い当てて、 「あたしは監督なんだからね。そんな|嬉《うれ》しがって表に出たりはしないのよ。二|匹《ひき》のウサギを追いかけていたら切り株につまずいてコケるだけなの」  おまえはプロデューサーも|兼《か》ねてるんじゃなかったっけ。 「裏方スタッフは何役兼ねてもいいのよ。でもまあ、カメオ出演みたいに|一瞬《いっしゅん》だけチラッと映るのはいいかもね。お遊びも入れといたほうがマニア心をくすぐるから」  どこのマニアが対象になっているんだろう。朝比奈さんマニアか? 今までのところ朝比奈みくるコスチュームプレイ集にしかなってねえぞ。……考えてみれば、それで|充分《じゅうぶん》だが。  古泉はホットオーレを|優雅《ゆうが》な仕草でテーブルに戻し、 「登場人物は僕たち三人だけなのですか?」  ばか、余計なことを|訊《き》くな。 「そうねえ……」  ハルヒは口をアヒルにして考え込むふうである。それくらいあらかじめ考えておけ。 「やっぱり三人だけじゃ少ないかしら。うん、少ないわね。脇が光ってこそ主役も生きるというものだわ。古泉くん、いいことを気付かせてくれたわ。お礼に出番を増やしてあげる」 「それは……どうも」  古泉は|笑《え》みを|浮《う》かべたまま、しまった、と言いたげな顔になった。ざまを見るがいい。俺なんか|藪《やぶ》をつつけばマムシが出てくると知ってるから何も言わないのだ。  しかしどこから新たな登場人物を連れて来るつもりだろう。こいつがアトランダムに連れて来る人間は、七十五%の確率で変態的な裏設定を持っていることになっている。順番から言えば今度は異世界人が来そうだ。そして俺はそんな|奴《やつ》にこの世に来て欲しくないと考えてもいる。 「ボスを|倒《たお》す前にはザコをたくさんとっちめないといけないのよね。ザコ、ザコ……」  唇《くちびる》の下に指を当てるハルヒは俺をチラリ見する。 「あいつらでいいだろ」  俺もハルヒの考えを読み取った。谷口と国木田。連れて来てももうまったくどうでもいい奴と言えば、あの二人くらいだ。完全な|脇役《わきやく》以下、ザコ中のザコキャラである。単独で出現したホイミスライムより無害であるのは|間違《まちが》いない。 「それでいいわ」  もう一人くらい欲しそうな|監督《かんとく》の顔から目を|逸《そ》らし、俺はテーブルにほっぺたをつけて目を閉じる朝比奈さんを|盗《ぬす》み見た。やっぱり|寝顔《ねがお》も|可愛《かわい》いね。寝たフリもな。  俺はソーダ水をちゅうちゅう吸っている長門の死神衣装に目を|遣《や》って、その無感動ぶりを心ゆくまで|鑑賞《かんしょう》してから、 「で、次は? 何を|撮《と》るんだ?」  ハルヒは|蕎麦湯《そばゆ》をどぼどぼ|注《つ》ぎ、それをすっかり飲み干すまでの時間を|稼《かせ》いだ。それから、 「とにかくみくるちゃんにはヒドイ目にあってもらうとするわ。|可哀想《かわいそう》な少女がとことん|酷《ひど》いコトされて、最後に逆転ハッピーになるってのが、この映画のテーマだから。みくるちゃんが不幸になればなるほどラストのカタルシスもパーンと|弾《はじ》けるってものよ。安心して、みくるちゃん。これはハッピーエンドだからね」  ハッピーなのは最後だけだろうな。その間、朝比奈さんはひたすらハルヒ監督の|暴虐《ぼうぎゃく》にさらされるというわけだ。さて、どんなシナリオをハルヒは用意してるんだろう。ブレーキ役は俺だけみたいだし、ここは一つ注意して見守らないとな。ところでカタルシスって何だ?  朝比奈さんは、閉じていた|目蓋《まぶた》を半分だけ開けて、俺のほうを救いを求めるような目で見つめてくれた。左目だけが|碧眼《へきがん》のヘテロクロミア。が、すぐに|薄《うす》い|吐息《といき》をして、ゆるゆると閉じる。なんですか、俺が|頼《たよ》りになりそうにないっていう意思表示ですか。  古泉と長門が何の|防波堤《ぼうはてい》にもなりそうにない現在、俺だけですよ、あなたの味方は。  もっとも、俺が何かしようとしてもハルヒを押し|留《とど》めることのできた|例《ためし》もまた、この半年間|皆無《かいむ》だったけどさ。俺の|騎士道《きしどう》精神的意気込みだけでもくみ取って欲しいね。風車に|槍《やり》を投げてるような|虚《むな》しさを感じないでもないけど。  正直言うと、別に止めることはないと思っていた。半年前、俺はハルヒを|羽交《はが》い|締《じ》めにしてでもSOS団創設を断念させるべきだったと考えたのだが、そんなもんは結果論で、俺がボヤボヤしているうちにハルヒは部室と団員を用意してしまい、なし|崩《くず》し的に俺も団員その一にされていた……ってのが現実的な結果だ。  しかし、もし俺がこの女の後頭部を背後から|棍棒《こんぼう》で|殴《なぐ》るなり|闇討《やみう》ちするなり不意打ちするなりして制止できていたら、朝比奈さんや長門や古泉たちと出会わずにすんだかもしれない。あるいは、もっと別の形で出会えたかもしれない。つまり宇宙人だとか未来人だとかいうような信じがたい設定を知らされることなく、|普通《ふつう》の同級生とか上級生とか赤の他人とかで|廊下《ろうか》をすれ違うだけだったかもしれない。  どっちがよかった?などと訊くなよ。俺はすでに団員三人の自己PRを聞いちまったし、長門の変な力やもう一人の朝比奈さんや赤玉になる古泉を|目撃《もくげき》しているんだからな。たぶんどっかのパラレルワールドに行けば、ハルヒや以下の三人と会話一つしたことのない俺がいるだろうから、そいつに訊けばいいことさ。俺は知らねえ。  知らねえと言っていられないのは、この俺の今の状態だ。映画作り。うむ。適度に文化祭っぽい展開だ。何もおかしくはないだろう。おかしいのはハルヒの頭の中くらいだが、それはとっくに|解《わか》りきったことなので|今更《いさら》|誰《だれ》も|驚《おどろ》かない。いきなり映画を作ると言い出したところで、こいつがアホなことを言い出すのも今更なので俺にしてみれぱ定期的なルーチンワークだ。適当にやってりゃ何とかなるだろ——。  と、そう考えた。だから映画|撮影《さつえい》を止めることもしなかった。監督でも何でも好きなことをやれ。好きなだけ周囲を|振《ふ》り回してくれ。それでお前の気が晴れるなら、俺も内心のため息を押し殺して付き合ってやるさ。お前と二人っきりで得体の知れん空間に閉じこめられるのは|金輸際《こんりんざい》願い下げだからな。  張り切るハルヒとヨレた朝比奈さんと微笑み古泉と仮面みたいな長門の無表情を眺めながら、俺はそう思っていたのだ。  止めときゃよかったと|後悔《こうかい》する時が来るとも知らずに。  俺たちはまた森林公園広場に|舞《ま》い|戻《もど》った。なんとかならないのか、この段取りの悪さは。神社に行く前にまとめて撮っておけよ。|脚本《きゃくほん》がハルヒの頭にしかないのがそもそもの問題だ。やっぱり文書化は大切だよな。文字情報|偉大《いだい》なり。 「やっぱ|銃《じゅう》はやめにするわ。もっと凄い弾が出ると思ってたのに、ハデな|炎《ほのお》も音もないし臨場感がないもの。あんまり効いてる気がしないのよ。レプリカだとダメね」  ヤマツチモデルショップの赤字経営を後押しするようなことを言いつつ、ハルヒは|運動靴《うんどうぐつ》の|爪先《つまさき》で地面に二つのペケマークを書いていた。朝比奈さんと長門の立ち位置をバミっているらしい。 「みくるちゃんはこっち、有希はここ」 「ふみゅう」  朝からハルヒに引っ張り回されている朝比奈さんは、すでに一日分のカロリーを全消費したようなおぼつかない|脚《あし》の動きで|抵抗《ていこう》の余地もなく、エロいウェイトレス姿でウロツキまわる精神的|疲労《ひろう》度がよほどキているらしい。|羞恥《しゅうち》の思いを|超《こ》えて幼児退行化しているのかと思うくらいのお人形さんぶりだった。  長門は元からの人形ぶりで、|黙々《もくもく》とバミり位置に移動して黙々と立ちつくす。黒マントが|吹《ふ》き下ろしの山風にそよそよとなびいている。  ハルヒは朝比奈さんからもぎ取ったモデルガンを指先でくるくる回しながら、 「この位置を動かないでね。向かい合って|睨《にら》み合っているシーンを撮りたいから。古泉くん、レフ板用意して」  それからディレクターズチェアに戻ってきたハルヒは、銃を天に向けてぶしゅんとぶっぱなして、 「アクション!」  と|叫《さけ》んだ。  俺は|慌《あわ》ててカメラを構えたが、もっと慌てたのは朝比奈さんだろう。アクションて。ハルヒは立ってろとしか言っていないぞ。どんなアクションをせよと言うのか。 「…………」  長門と朝比奈さんは無言で相手の顔色をうかがい合っている。 「あの……」  先に朝比奈さんが視線を|逸《そ》らす。 「…………」  長門はじっと朝比奈さんを見つめ続けている。 「…………」  朝比奈さんも|沈黙《ちんもく》する。  そのまま、そよそよと風が吹いているだけのお見合い場面が延々と続けられた。 「もう!」  ハルヒがなぜかキレた。 「そんなんじゃバトルにならないでしょー」  立ってるだけだからな。  |拳銃《けんじゅう》からメガホンに持ちかえたハルヒは、つかつかと朝比奈さんに近寄ると、自分が|結《ゆ》った|柔《やわ》らかそうな|栗色《くりいろ》の|髪《かみ》をぽこんと|叩《たた》いた。 「みくるちゃん、いい? あのね、いくら|可愛《かわい》いからってそんだけで安心してちゃダメよ。可愛いだけの女の子なんて|他《ほか》にも|腐《くさ》るほどいるのよ? |安穏《あんのん》としてたらすぐに下から若いのがどんどん出てきて追い|越《こ》されちゃうの」  何が言いたいんだ?  頭を押さえる朝比奈さんに、ハルヒは言い聞かせるように言った。 「だからね、みくるちゃん。目からビームくらい出しなさい!」 「ふえっ!?」  朝比奈さんは驚きに目を見開いて、 「無理ですっ!」 「その|色違《いろちが》いの左目はこのためのものなのよ。無意味に青くしてるんじゃないのよ。凄い力を|秘《ひ》めているっていう設定なの。つまりそれがビームなの。ミクルビームよ。それを出すの」 「で、出ませんっ!」 「気合いで出せ!」  |及《およ》び|腰《ごし》になる朝比奈さんにヘッドロックをかまし、ハルヒは黄色メガホンで|旋毛《つむじ》をぽこぽこ叩いている。  いたいいたいと泣き声を上げる朝比奈さんがあんまりにもあんまりだ。俺は、レフ板を置いて|面白《おもしろ》そうにその光景を|眺《なが》めている古泉にカメラを|渡《わた》し、ハルヒの首根っこをつかんだ。 「やめろ、バカ」  |小柄《こがら》なウェイトレスから|暴虐超監督《ぼうぎゃくちょうかんとく》を引きはがす。 「まともな人間が目からビームなんか出すかい。アホか」  両手で頭を押さえている朝比奈さんを見ろ、|可哀想《かわいそう》に|涙《なみだ》ぐんでいるじゃないか。その通り、つぶらな|瞳《ひとみ》から出るものと言えば|真珠《しんじゅ》の涙くらいなのだ。 「ふん」  |襟首《えりくび》をつかまれたまま、ハルヒは横を向いて鼻を鳴らす。 「|解《わか》ってるわよ、それくらい」  俺は手を|離《はな》す。ハルヒはメガホンで首筋を叩きながら、 「ビーム出すくらいの気合いを入れろって言いたかっただけよ。主演とは思えない|覇気《はき》のなさだったから。あんたも|冗談《じょうだん》の解らない|奴《やつ》ね」  お前の冗談は冗談にならないから困るんだ。朝比奈さんに本当にビーム発射機能があったらどうするんだ。  ……ありませんよね?  不安になって朝比奈さんに流し目を向ける。朝比奈さんはオッドアイみないな涙目で、きょとんと俺を見上げた。パチパチ|瞬《まばた》きして小首を|傾《かし》げる。どうも俺のアイコンタクトは朝比奈さんには通用しないみたいだな。と思っていると、古泉がしゃしゃり出てきてハルヒに|諫言《かんげん》した。 「そのへんは撮った後でCG処理するなりして何とかできるでしょう」  ティッシュの箱を手にした古泉は親切めかした|詐欺師《さぎし》的|笑《え》みを|浮《う》かべ、それを朝比奈さんに|手渡《てわた》して、 「涼宮さんも最初からそのつもりだったのではないですか?」 「そのつもりだったわ」とハルヒ。  |怪《あや》しいもんだ、と思う俺。  朝比奈さんはティッシュペーパーで涙を|拭《ぬぐ》い、ちんと鼻をかんでから、挙動|不審《ふしん》な仕草でハルヒを見たり俺を見たり。  長門は目立ちすぎの|黒子《くろこ》みたいな|恰好《かっこう》で|黙《だま》ったまま風にそよがれている。早く|陽《ひ》が暮れないもんかな。光量不足につき|撮影《さつえい》続行不可になる時間が待ち遠しいね。 「今のはNG、もっぺん|撮《と》り直し」  ハルヒが言って、朝比奈さんと決めポーズの打ち合わせを始めた。 「ミクルビームっ!って|叫《さけ》びながら手をこうするの」 「ここ、こうですか……?」 「違う、こうよ! それから右目は閉じといて」  左手で作ったVサインを左目の横に置いてウインクすると目からビームが出る仕組みらしい。 「みくるちゃん、言ってみて」 「……ミミミ、ミクルビームっ」 「もっと大きな声で!」 「ミクルビームっ!」 「照れずに大声でっ!」 「ひ……ミクルビー……ムっ!」 「腹から声を出せっ!」  何のコントだ。  真っ赤になって|絶叫《ぜつきょう》する朝比奈さんに腹式発声を|強《し》いるハルヒ。広場をちょろついていたヒマなガキどもや家族連れたちの目が痛い。見せ物ではないと言いたいところだが、俺たちの|撮《と》っているのは映画らしいのでまさしく見せ物だ。このメイキングシーンを撮っておくだけでいいんじゃないかね。ハルヒ式ハッピーストーリーがどれほどのものかは知らんが、朝比奈みくるプロモとしてはもう|充分《じゅうぶん》すぎるほどだぞ。  やがて朝比奈さんと長門はさっきのバッテンマークの上に立ち、古泉は|脇《わき》でレフ板を持ってバンザイ続行、その横でハルヒがふんぞり返り、俺は長門の背後に回って黒い背中から二メートルくらい離れ、その|肩越《かたご》しに朝比奈さんを撮ることになった。これもハルヒ指示によるカメラアングルだ。  |突然《とつぜん》の変化はこの直後に起こった。 「はい、そこでビーム!」  ハルヒのかけ声に、朝比奈さんは自信なさそうにポーズを取った。 「みっ……ミクルビーム!」  ムリヤリなカメラ目線でヤケ気味のファルセット、|可愛《かわい》く叫んでへたっぴなウインク。  その|瞬間《しゅんかん》、俺の|覗《のぞ》いているカメラのファインダーが突然真っ暗になった。 「あ?」  何が起こったのか理解が追いつかなかった。カメラの故障かと思ったほどだ。俺はハンディビデオを目から外して、目の前に立つ|不吉《ふきつ》な|衣装《いしょう》のトンガリ|帽子《ぼうし》を見た。 「…………」  長門が俺の目前で|握《にぎ》り|拳《こぶし》を作っている。レンズを|覆《おお》って暗くしたのは長門の右手だ。 「え?」とハルヒも口を開け放している。  ハルヒの|描《か》いた×マークは俺の二メートルほど前方にある。ついさっきまで確かに長門はそこに立っていた。ハルヒのアクションコールで朝比奈さんが声を上げた時、ビデオカメラには長門の黒い後ろ姿もちゃんと写っていた。それから一秒もしないうちになぜか長門は、俺の顔の前で何かを握るように|片腕《かたうで》を上げて静止している。ワープしたとしか説明できない。 「あれっ」とハルヒも言った。「有希、いつの間にそんな所にいるの?」  長門は答えず、ビー玉みたいな|瞳《ひとみ》を朝比奈さんに向けていた。その朝比奈さんも目を見開いて|驚愕《きょうがく》の表情、そしてゆっくりと瞬きを——。  再び長門の手が光速くらいのスピードで動いた。まるで飛んでいる|蚊《か》を|捕《つか》まえるように空中をつかむ。持っていたはずの星付きアンテナ棒はどこだ?  ん? 今なんか|微《かす》かに変な音がしたぞ。火の|点《つ》いたマッチをどぶ川に落としたような、そんな音だ。 「えっ……?」  |戸惑《とまど》っているような声を出したのは朝比奈さんだ。|状況《じょうきょう》が|解《わか》らないのだろう。俺だって解らない。長門はいったい何をしているんだ?  朝比奈さんは救いを求めるように、視線を横に向け——不自然な音が古泉のほうから|響《ひび》いた。聞き|違《ちが》いを疑いようのない、パンクしたタイヤから空気の|抜《ぬ》けるような……。  古泉が頭の上で持っていたレフ板——|発泡《はっぽう》スチロールの板に白い厚紙を張っただけのチープなシロモノだ——が、|斜《なな》めに切断されていた。|珍《めずら》しく絶句する古泉が、ぽろりと落下するレフ板の上辺を|眺《なが》めて|茫然《ぼうおん》としている。だが、そんな貴重な光景をゆっくり眺めている|余裕《よゆう》は、俺にもなかった。  長門が動いていた。長門だけが。  黒い|影《かげ》が地を|蹴《け》って、ふわりと|舞《ま》い降りた先は朝比奈さんのすぐ前だ。長門はマントの下から|伸《の》ばした右手で、朝比奈さんの顔面を|鷲《わし》づかみにした。細っこい指が朝比奈さんの目を覆うように、こめかみに指をめり込ませている。 「あぎゃっ……ななな長門さ……!」  構わず長門は大外がりをかけて主演ウェイトレスを地面に押し|倒《たお》した。豊かな胸の上に馬乗りになる死神装束。朝比奈さんは悲鳴を上げて、アイアンクローをかけている長門の細腕を握りかえした。 「ひえええっ!」  やっと俺は我に返った。なんだなんだ? 長門が瞬間移動して|撮影《さつえい》を|妨害《ぼうがい》したかと思うと、古泉のレフ板が二つに割れ、宇宙人が未来人に|襲《おそ》いかかっている。ハルヒはいつの間にこんな演出を二人に伝えた——わけでもなさそうだ。|監督《かんとく》も俺と古泉と|一緒《いっしよ》になって|唖然《あぜん》としていたからだ。それは二人の演技があまりに真に|迫《せま》っていたからではないだろう。 「……カットカット!」  ハルヒは|腰《こし》を|浮《う》かしてメガホンを|椅子《いす》に|叩《たた》きつけた。 「ちょっと、有希、何してんの? そんなの予定にないわよ」  白い太ももの大半を|露《あら》わにしてバタついている朝比奈さんの上で、長門は|黙々《もくもく》として乗っかって顔をつかんだままだ。  小声で|呟《つぶや》くような声を聞いて俺がそっちを向くと、古泉がレフ板の切り口を見つめて|唇《くちびる》を|歪《ゆが》めていた。その目が俺に気付いて、|奇妙《きみょう》な目配せをしやがった。何の|真似《まね》だ、それは。  いや、古泉の意味ありげな目線などどうでもいい。今はなぜか総合|格闘技《かくとうぎ》を始めた長門をなんとかしないと。俺はカメラを|携《たずさ》えて組んず|解《ほぐ》れつしているウェイトレスと黒ずくめの|魔法使《まほうつか》いに|駆《か》け寄った。 「何をやってるんだ、おい長門」  |鍔広《つばひろ》帽子がゆっくりとこちらを向いた。長門のブラックホールみたいに黒い瞳が俺を見上げ、小さな唇が開きかけ、 「…………」  何か言うのかという俺の期待は|封《ふう》じられた。長門は話す内容にふさわしい言語がないとでも言うような顔で無言のままに唇を|閉《と》ざし、ゆるゆるとマウントポジションを解いて立ち上がった。黒マントの|右肩《みぎかた》が動き、|衣装《いしょう》の下に手が引っ込む。 「ひぃ……ひぇぇ……」  ひたすら|脅《おび》えているのは|仰向《あおむ》けに転がっている朝比奈さんだ。そりゃ|恐《こわ》いと思うね。長門が例の無表情で迫ってきて、地面に引き倒されたら俺だってビビる。なんせ長門の今の|恰好《かっこう》はあまり夜道の曲がり角とかで|鉢合《はちあ》わせしたくない黒魔道士だ。気の弱い|幼稚園児《ようちえんじ》なら失禁は|免《まぬが》れそうにない。 「…………」  ぶかぶかのトンガリ|帽子《ぼうし》を|目深《まぶか》にかぶった長門は|微動《びどう》だにせず、|真《ま》っ|直《す》ぐ俺を見つめていた。  俺はがくがくする朝比奈さんの肩を支えて起きあがるのにカを貸した。泣き虫が目に止まったと見えて、朝比奈さんは|鳴咽《おえつ》を|漏《も》らしながらポロポロと|涙《なみだ》をこぼしていた。長い|睫毛《まつげ》に|縁取《ふちど》られた|瞳《ひとみ》が|濡《ぬ》れたおかげでさらなる|魅力《みりょく》度アップに……あれ? 「もう、何やってんのよ二人とも。台本にないことしないでちょうだい」  台本も書いていない監督がやって来て、俺と同じく「あれっ?」と|怪訝《けげん》な声を上げた。 「みくるちゃん、コンタクトどうしたの?」 「えっ……」  俺の|腕《うで》にしがみついて泣いていた朝比奈さんは、指を左目の下に当てて、 「あれっ?」  三人で不思議がっていてもしかたがない。こういうときは事態を|把握《はあく》していそうな|奴《やつ》に|訊《き》くに限る。 「長門、朝比奈さんのカラーコンタクト知らないか?」 「しらない」  長門は平然と答えた。|嘘《うそ》だと思う。 「さっきの|格闘《かくとう》で落っこちたのかしら」  ハルヒは見当違いのことを言って地面を見回している。 「キョン、あんたも探しなさいよ。安いもんじゃないのよ。けっこうしたんだから」  |這《は》いまわるハルヒに付き合って、俺も四つん這いになった。|無駄《むだ》だと|悟《さと》ってもいたがな。朝比奈さんの上から|退《ど》いた長門の右手が、そっと何かをつかんで引っ込められたのを俺は見たように思っていた。そして、組み|敷《し》いていた長門がつかんでいたのは朝比奈さんの顔面だ。 「なんでどこにもないのよ」  口を|尖《とが》らせているハルヒには悪いが、俺は|真面目《まじめ》に探していなかった。|振《ふ》り返って見ると、古泉は分離したレフ板の切り口を合わせたり離したりして遊んでいる。お前も探すフリをしろよ。  古泉は|微笑《ほほえ》んで、 「風で飛んでいったのかもしれませんね。軽いものですから」  いい加減なことを言い、俺にレフ板の|残骸《ざんがい》を見せつけた。起きあがったハルヒがそれを|奪《うば》い取る。 「どうしたの? 割れちゃったの? ふーん、安物だったのね。ま、うちの写真部だからそんなもんよね。古泉くん、裏からガムテープでも|貼《は》っといてちょうだい」  こともなげに言って、ぽかんとした表情をして涙を止めた朝比奈さんに、ワニみたいな目を向けた。 「カラーコンタクトがないと映像が|繋《つな》がんないなあ。どうしようかな」  考えているらしい。やがて頭に豆電球くらいの光が走ったのか、ハルヒは指を鳴らした。 「そだ。目の色が変わるのは変身後にしましょう!」 「へ、へんしん?」と朝比奈さん。 「そうよ! ふだんからそんなコスチューム着てるのはどうやってもリアリティがないもんね。その衣装は変身後の|扮装《ふんそう》で、いつもはもっとまともな恰好をしてるのよ」  フィクションにリアリティを求める奴のほうがどうかしていると思うが、ハルヒの意見をその通りに聞くと、コスプレウェイトレスがマトモでないことを自ら|露呈《ろてい》したも同じである。朝比奈さんも大きくうんうんと首を前後に振った。 「い、いいですね、それ。まともな恰好をしたいです、すごく」 「というわけで、みくるちゃんの|普段着《ふだんぎ》はバニーガール!」 「ええっ!? ななななんでっ?」 「だってそれしか持ってきてないもん。本当の普段着じゃあ画面がちっとも|華《はな》やかでないわ。待って! 設定なら今考えたから。つまりね、みくるちゃんの通常形態は商店街の客引きバニーガールなのよ。危機を感知するとすかさず変身! 戦うウェイトレスになるってわけ。どう、|完壁《かんぺき》でしょ」  さっきリアリティがどうとか言ってなかったか? 「じゃあ、さっそく」  ハルヒは口を三日月の形にして危険な|微笑《びしょう》、朝比奈さんの腕を背中に回して手首を固定すると、「あの、ちょっと、いたたた」と小さな悲鳴を上げ続けるウェイトレスを森の中に連れ込んでいった。  うーん。  ……まあ、それはいいんだ。朝比奈さんには|合掌《がっしょう》するしかないが、ハルヒが消えてくれたのは好都合だ。あなたの|犠牲《ぎせい》は無駄にしません。バニーも楽しみです。  ……まあ、それもいいんだ。俺は長門に問いたださねばならないことがある。 「それで、あれは何のアドリブだったんだ」  無感動に長門はちょんとトンガリ帽子の|鍔《つば》を左手で押さえた。顔の大部分を|影《かげ》の中に|仕舞《しま》い込みながら、ゆるりと右手を出してくる。制服の上からすっぽり|被《かぶ》っているだけなので、袖はセーラー服のものだ。長門は右手の人達し指だけを上向けていた。その指に青いコンタクトレンズが|載《の》っている。  やっぱりお前がスっていたか。 「これ」  長門はそう|呟《つぶや》き、 「レーザー」 と言って、口をつぐんだ。  ………。  なあ、いつも思うんだがな、お前の説明は必要最小限にも達していないんだよ。せめて十秒くらいは話してくれ。  長門は自分の指先を見つめて、 「高い指向性を持つ不可視帯域のコヒーレント光」  非常にゆっくり|喋《しゃべ》ってくれた。なるほど、高いシコウセイを持つフカシタイ……。  すまないが、もっと|解《わか》らなくなった。 「レーザー?」と俺。 「そう」と長門。 「それは|驚《おどろ》きですね」と古泉。  古泉はコンタクトを指でつまみ上げ、光に|透《す》かすように観察して、 「|普通《ふつう》のレンズにしか見えませんが」  いかにも感心したみたいなことを言っている。俺は何を驚いていいのかが解らないから、当然感心もできない。 「どういうこったよ」  古泉はふっと|微笑《ほほえ》んで言った。 「右の|掌《てのひら》を見せてくれませんか。いえ、あなたではなく、長門さんですよ」  黒衣の少女は俺に視線を送り込み、まるで許可を待っているように見えたから俺はうなずいた。それを|確認《かくにん》してから、長門は人差し指以外|握《にぎ》りこんでいた|他《ほか》四本も広げ、そして俺は息を飲んだ。 「…………」  俺たちの三人の間に|沈黙《ちんもく》の風が|一陣《いちじん》ほど舞った。俺は寒気を覚えて、やっと|悟《さと》った。そういうことか。  長門の簡単な手相の右掌、そこに黒く|焦《こ》げた小さな穴が何個か開いている。赤く|灼《や》けた|火箸《ひばし》を|突《つ》き|刺《さ》したならこんな感じの穴が開くんじゃないだろうか。五つほどあった。 「シールドしそこねた」  そんな|淡々《たんたん》と言うなよ。見るからに痛そうだぞ。 「とても強力。とっさのこと」 「レーザー光線が朝比奈さんの左目から放出されたんですね?」と古泉。 「そう」  そう、じゃねえだろ。古泉もだ。|状況把握《じょうきょうはあく》以外にすることがあるだろうが。 「すぐに修正する」  その言葉通り、俺たちが|覗《のぞ》き込んでいる間に、長門の手に開いた穴は|極《きわ》めて|迅速《じんそく》に|塞《ふさ》がれて元の白い|肌《はだ》に|戻《もど》った。 「なんてことだ」  俺は|呻《うめ》くしかない。 「朝比奈さんは、マジで目からビームを出したのか」 「|粒子《りゅうし》加速|砲《ほう》ではない。|凝集光《ぎょうしゅうこう》」  どっちでもいい。レーザーでもメーサーでもマーカライトファーブでも|素人目《しろうとめ》には似たようなもんだ。荷電粒子砲と反陽子砲の|違《ちが》いだって知るものか。|怪獣《かいじゅう》に効果があれば裏付けなんかいらん。  ここで問題とすべきは、怪獣も出てきてないのに朝比奈さんが熱線を出しちまったということだろう。 「熱線ではない。フォトンレーザー」  だからどっちでもいいんだよ、そんな科学考証は。  長門は|黙《だま》り込み、右手を|仕舞《しま》った。俺は頭を|抱《かか》え、古泉はコンタクトを指で|弾《はじ》きつつ、 「これは朝比奈さんに元から備わっていた機能なのでしょうか?」 「ない」長門はあっさり否定、「現在の朝比奈みくるは通常人類であり、それ単体では|一般人《いっぱんじん》と何ら変化はない」 「このカラーコンタクトに何か|仕掛《しか》けがあるのでは?」古泉が食い下がるが、 「ない。ただの|装飾《そうしょく》品」  そうだろうな。コンタクトを持ってきたのはハルヒなわけだしな。と言うか、それが最大の問題なんだよな。|誰《だれ》でもない、あいつが持ってきた、というこの事実が。  極めつけなこともある。もし長門が防いでくれなかったら、朝比奈さんの目から出たレーザー光線はビデオカメラのレンズを通過して、俺の目玉も|貫通《かんつう》し、その他色んなものを焼いたあげく後頭部から出て行ったことだろう。特に|脳味噌《のうみそ》が焦げ|臭《くさ》くなったであろうことは間違いない。やばいだろそれは。  にしても俺は長門に命を救われてばかりだな。立つ|瀬《せ》がない。 「となると」  古泉は|顎《あご》を|撫《な》でながら|笑《え》みを苦み走らせる。 「これは涼宮さんの|仕業《しわざ》ですね。彼女がミクルビームがあって欲しいと思ったから、現実がそのように変化したと、そういうことです」 「そう」  保証する長門はあくまで感情無しだ。俺はそう落ち着いてはいられない。 「待てって。そのコンタクトには何の|魔法《まほう》もかかっていないんだろ? ハルヒがそう願ったとして、なんで殺人光線が出るんだよ」 「魔法や未知の科学技術などを涼宮さんは必要としませんよ。彼女が『在る』と思えば、それは『在る』ことになるのですから」  そんなクソ|理屈《りくつ》で俺が|納得《なっとく》すると思うなよ。 「ハルヒは本気でビーム|撃《う》てとか言ってるわけじゃねえだろ。それは|奴《やつ》の映画の中での設定だ。あいつだって言ったじゃねえか、|冗談《じょうだん》だってさ」 「そうですね」  古泉もうなずいた。そんな簡単に反論を受け入れるな。俺の言葉が続かんだろ。 「涼宮さんが常識人なのは我々も知るところです。ですが彼女にこの世の常識が通用しないのもまた事実です。今回も何か特異な現象が働いているのでしょう。それは……おっと、戻って来られましたよ。この話はまた後ほどに」  さり気なく、古泉はコンタクトをシャツの胸ボケットに|滑《すべ》り込ませた。  困ったもんだった。  世界の|破滅《はめつ》を何かと戦ってトンチと機転で防ぐとか、問答無用でとにかく悪い奴を|叩《たた》きのめすとか、こぢんまりした世界観の中で制限付き|超能力《ちょうのうりょく》合戦を|真面目《まじめ》にするとか、その合間に適当な感情ドラマが|挿入《そうにゅう》されるとか——。  実のところ、そんなののほうが俺は好みなのだ。どうせならそういうハナっから|嘘《うそ》くさい設定の物語に巻き込まれていたい。現実から|乖離《かいり》していればいるほどいい。  なのに今の俺といったらどうだ。一人の同級生に声をかけてしまったことが|災《わざわ》いし、なんだか全然設定の|解《わか》らない奴らに囲まれて、なんだか全然意味の解らないことばかりをやっている。目からビーム? なんだそりゃ、何の意味がある?  考えてみれば、だいたい朝比奈長門古泉の|謎《なぞ》設定トリオからして今一つ正体が明らかでない。全員が全員、好き勝手な自己|紹介《しょうかい》をしてくれたが、あんなものを信じるには俺の頭はまともすぎる。いくら信じざるを得ないような体験を|伴《ともな》っていたとしてもだ。物事には程度ってものがあり、俺はちゃんと自分の物差しを持っている。目盛りは少々あやしくなってきたが。  本人たちの主張によれば、まず朝比奈さんは未来から来た未来人である。|西暦《せいれき》何年から来たのか教えてもらっていないが、来た理由だけは知ってる。涼宮ハルヒの観察だ。  長門は地球外生命体に作られたヒューマノイド・インターフェースである。「何それ?」と言われても困る。俺だってそう思うのだからフィフティフィフティだろ。何でまたそんなのが地球にいるのかというと、情報統合思念体とかいう長門の親玉がどうも涼宮ハルヒに興味があるからのようだ。  そんで古泉は『機関』という謎組織から|派遣《はけん》された超能力者である。こいつが転校してきたのはその任務の一つであって、役割は涼宮ハルヒの|監視《かんし》である。  そして|肝心《かんじん》のハルヒだが、これだけ異様なプロフィールを持つ三人がかりでも、|未《いま》だに存在自体がなんだかよく解らない奴なのである。朝比奈さんによると『時空の|歪《ゆが》みの原因』で、長門は『自律進化の可能性』と言い、古泉はシンプルかつ|大仰《おおぎょう》にも『神』と呼んでいた。  ホントもう、みんなご苦労さんと言いたい。  苦労ついでに早くハルヒをどうにかしてやってくれ。でないとこの女団長はいつまで|経《た》っても謎のまま、中性子星みたいな引力で俺を重力|圏《けん》に|搦《から》め|捕《と》ったままだろうからな。今はまだいいさ、でもな、十年後くらいを考えてみろよ。その時になってもハルヒがこのハルヒのままだったらどうするんだ? かなリイタイことになるぜ。部室を不法|占拠《せんきょ》したり、街中を|鵜《う》の目|鷹《たか》の目で練り歩いたり、無意味に|騒《さわ》いだり|怒《おこ》ったり|情緒《じょうちょ》不安定になったりが許されるのはギリギリ十代までだ。いい|歳《とし》こいてまでやるもんじゃない。そんなのただの社会不適合者だ。そうなっても朝比奈さんや古泉や長門はハルヒに付き合って何かしてやるつもりなのか?  俺なら先に謝っておこう。すまん、そんなつもりは毛頭ない。なぜなら時間が許さないからさ。人生のリセットボタンは手軽に落ちてたりはしないし、セーブポイントがどこかの路地裏にマーキングされているわけもないんだぜ。  ハルヒが時間を歪めてたり情報を|爆発《ばくはつ》させていたり世界を壊したり創ったりしているのかどうかなんて関係ない。俺は俺で、こいつはこいつだ。いつまでも子供のママゴト遊びに付き合ってはいられない。たとえそうしていたくても帰宅時間は確実に来るんだ。それが何年、何十年先のことだろうと、確実にな。 「いつまでゴネてるのよ! もうとっくに見られ慣れしてるでしょ?」  木々の間から、ハルヒが朝比奈さんを運んでくるのが見えた。 「女優らしくしなさい。|潔《いさぎよ》い|脱《ぬ》ぎっぷりはブルーリボン新人賞への早道なのよ! 今回の|撮影《さつえい》では脱いでもらうことはないけどね。出し|惜《お》しみはしとかないと」  仕留めたウサギを持ってくる|猟犬《りょうけん》みたいな勢いだ。ハルヒは土の地面を歩きにくそうにしているハイヒールのバニー朝比奈さんを伴って、くしゃみが出そうなくらいに明るい|笑顔《えがお》で|戻《もど》ってくる。 「この映画が成功を収めたら、その収益でみんなを温泉に連れて行ってあげるわ。|慰安《いあん》旅行よ、慰安旅行。みくるちゃんも行きたいでしょ」  だが……、まあ、そうだな。それまでは俺も付き合っていてやるよ。俺が混ざりたかったのは、お前が|撮《と》っている映画の設定みたいな話の中だったんだけどな。古泉イツキ的ポジションだったらなお|万全《ばんぜん》なのだが、俺にはどうやら|秘《ひ》められた力はないみたいだしさ。  ここでおとなしく、お前のツッコミ役をやらせてもらうさ。  あと何年かしたら「そう言えばあんときはそんなこともあったなあ」なんて、笑って|誰《だれ》かに話したり出来るようになるだろう。  たぶん。  バニーガール朝比奈さんは、ウェイトレス以上に|恥《は》ずかしそうに歩いていた。ハルヒだけが得意満面だ。お前が得意がってどうするんだ。  俺はビデオカメラのピントを調整するふりをして、朝比奈さんの|胸元《むなもと》をアップにした。ほらアレだ、一応|確認《かくにん》しとかないと。  朝比奈さんの白い左の胸元には、小さなホクロがあって、それはよーく見ると星の形をしている。確認|終了《しゅうりょう》、この人は確かに俺の朝比奈さんだ。ニセモノじゃない。 「何してんの?」  レンズの前に、ぬうと現れたのはハルヒの顔だ。 「あたしの指示以外のものは撮っちゃだめよ。これはあんたのホームビデオじゃないんだからねっ」  |解《わか》ってるさ。それを|証拠《しょうこ》に録画ボタンは押していない。|眺《なが》めてただけだ。 「はいはいはいみんな注目! そして用意して! これからみくるちゃんの日常風景を撮るからね。みくるちゃんは自然な感じでそこらを歩いてて。それをカメラが追うわけ」  日常でバニーガールやっててこんな森林公園に|出没《しゅつぼつ》する少女ってのはいったい何なんだ。 「いいのよ、そんなの。この映画の中ではそれが|普通《ふつう》なの。フィクションに現実の尺度を当てはめるほうがおかしいの!」  それは俺がお前にこそ言いたいセリフだぞ。お前の場合は現実にフィクションの尺度を持ち込んでいるから逆ではあるが。  その後、朝比奈さんは自分が目から殺人レーザーを放ったとは知らず、ハルヒの演技指導のもと、公園の花を|摘《つ》んだり、|枯葉《かれは》をつまんで|吐息《といき》で飛ばしたり、|芝生《しばふ》の上で|跳《と》んだり|跳《は》ねたりを繰り返しては、どんどんへロへロになっていった。  トドメはハルヒの、 「うーん。山を背景にするとどうしても|浮《う》いちゃうわね。バニーガールで山歩きしたりは、さすがにしないわよね。街に行きましょう!」  自分が|先《せん》だって言ったセリフをあっさり|覆《くつがえ》した一言で、これで再びのバス移動が決定した。  今のところ照明係しかしていない主演男優古泉は、ガムテ補強したレフ板と俺が押しつけた荷物半分を|脇《わき》に|抱《かか》えて|吊革《つりかわ》につかまっていた。  俺もその横に立っていて、さらにその横に長門が黒い|影《かげ》となっている。ガラすきの座席に座っているのはハルヒと朝比奈さんだけだ。俺からカメラを|奪《うば》い取ったハルヒは、二人|掛《が》けの|椅子《いす》に|腰掛《こしか》けて真横から朝比奈さんを撮っていた。  朝比奈さんはずっとうつむいて、ハルヒの問いかけにボソボソと何か答えている。どうやら|監督《かんとく》による主演女優インタビューの|体《てい》らしかった。  バスは山道をうねくりながら住宅地へと降りていき、俺は運転手がルームミラーばかりを見ていることがないように心の中で手を合わせる。ちゃんと前を向いて運転しててくれよな。  その祈りが通じたか、バスは無事に終点の駅前まで辿り着いた。その頃には車内にも乗客がわんさといて、ほぼ全員の視線がハルヒと朝比奈さんと長門に向いていた。ぴょこぴょこするウサ耳と、背後からは白い|肩《かた》しか見えないお姿が|凶悪《きょうあく》だ。どうも朝比奈バニーバージョンは北高のみならず全市内にその|噂《うわさ》を広めそうな気配だった。  ハルヒの|狙《ねら》いがそれかもな。「昨日、バスに|別嬪《ぺっぴん》のバニーガールが乗っててさ」「あ、俺も見たよ」「なんだい、あれ?」「なんか北高にあるSOS団とかにいるらしい」「SOS団?」「そうSOS団」「SOS団ね、覚えておこう」とか、そんな展開になることを期待しているんじゃなかろうな。朝比奈さんはSOS団の|広告塔《こうこくとう》じゃないんだぜ。では何かと言えば決まってる、お茶くみ|及《およ》び俺の精神安定担当だ。本人だってそう望んでいると思う。きっと。  無論、ハルヒにとっては誰かの望みなんか馬耳東風以前に届きもしないのである。自分に不都合な他人の言葉は、ハルヒ|驚異《きょうい》のメカニズムによって|鼓膜《こまく》の外で|弾《はじ》かれるからだ。|浸透圧《しんとうあつ》の関係かもしれないな。この仕組みを解明できたらノーベル賞|審査《しんさ》委員会が生物学賞の審査対象くらいにはしてくれるかもしれん。誰かやってみないか?(なげやりに言うのがコツだ)  この日は|陽《ひ》が落ちるまで、朝比奈さんはバニーガールであり続けた。やったことと言えば、そこら中をこの姿で歩き回っただけである。これではいつもの不思議|探索《たんさく》パトロールと変わりがないが、人目を気にするぶん余計に|疲《つか》れるし、いつ警察を呼ばれるかとヒヤヒヤもんだ。ハルヒに|撮影《さつえい》許可とかいう|概念《がいねん》はないようで、どこで何を|撮《と》ろうがそれはハルヒの自由であり、その自由はインノケンティウス三世時代のローマ教皇権のように|侵《おか》しがたいものなのである——のだそうだ。自由の意味をはき|違《ちが》えている。 「今日はこんなもんね」  ようやくハルヒが仕事を終えた顔をしてくれて、長門を除く俺たちは|安堵《あんど》の表情を作った。長い一日だった。日曜の明日はゆっくり休みたいね。 「じゃあ、また明日ね。集合時間と場所は今日と同じでいいわ」  あっけらと言う|奴《やつ》だ。|振《ふ》り|替《か》え休日を用意してくれるんだろうな。 「何それ。撮影が押しているのよ? |悠長《ゆうちょう》に休んでいるヒマはないの! 文化祭が終わってから思う存分休めばいいじゃないの。それまではカレンダーに赤い日付はないと思いなさい!」  撮影二日目で早くも時間配分を間違えているのも何とかならないのか。押しだって? つーことは、今日俺が撮った何時間もの映像はほとんど使われないのか? それともハルヒは大河ドラマを撮ってるつもりででもいるのか? 帯番組じゃないんだぜ。一発ネタの文化祭自主映画なのによ。  しかしハルヒは何一つ気に|病《や》むことはないようであった。俺にすべての荷物を押しつけると、自分は|腕章《わんしょう》を|携帯《けいたい》するだけの|極上《ごくじょう》の|笑《え》みを振りまき、 「それじゃあ明日ね! この映画は絶対成功させるのよ。いいえ、あたしが監督やってる以上、成功はもう約束されてるの。後はあなたたちのがんばりにかかってるのね。時間通りに来るのよ。来ない人は|私刑《しけい》の上に|死刑《しけい》だからねっ!」  そんなことを宣告し、マリリン・マンソンの『ロック・イズ・デッド』を口ずさみながら歩き去った。 「朝比奈さんには僕から伝えておきますよ」  帰り|際《ぎわ》、古泉が耳元で|囁《ささや》いた。朝比奈さんは古泉のブレザーを頭から|被《かぶ》っている。これが冬ならコートでも持参していたのに、残念ながら季節は晩夏あたりで|停滞《ていたい》していた。俺は足元に積まれた荷物の数々をうんざりと|眺《なが》めて、 「何を伝えるって?」 「例のレーザーのことをですよ。目の色さえ変えなければ変な光線も出ません。涼宮さんの法則ではそうなっているようですから、カラーコンタクトを入れなけれぱいいのです」  レフ板持ちの主役|野郎《やろう》は、俺に保険の外交員みたいな業務用スマイルを見せた。 「念のため、一つ保険を作っておくとしましょうか。彼女なら協力してくれるでしょう。何にせよ、ビームは危険ですので」  古泉が歩み寄ったのは、カラスを|擬人《ぎじん》化したような黒衣姿の長門へだった。  大荷物を|抱《かか》えて自宅に|戻《もど》った俺を、妹が変な生き物を見る目で|出迎《でむか》えてくれた。キョンとかいうマヌケな俺のニックネームを周囲に広める|元凶《げんきょう》となったこの小学生は、「それビデオカメラ? わあ撮って撮って」などとほざいたが、俺は「ドアホ」と答えて自室に引っ込んだ。  何にせよ、俺は疲れ果てていて、これ以上似合わないカメラマン|行為《こうい》をする意欲はとっくに蒸散している。朝比奈さんならともかく、何が悲しくて妹なんぞをビデオ映像として記録に残さねばならんのだ。ちっとも楽しかねえ。  俺は部屋にバッグやらリュックやら|紙袋《かみぶくろ》を置くと、ベッドに|倒《たお》れ込み、晩飯を食わせようとするオフクロの使命を受けた妹がエルボースマッシュで起こしに来るまで、つかの間の安らぎを得た。 [#改ページ]  第四章  翌日再び|飽《あ》きもせず、俺たちは駅前に集まった。ただ昨日と|違《ちが》うのは人員が入れ替わっている点だ。SOS団以外の人間三名ほどが新顔として俺の前に立っている。ハルヒ言うところのザコキャラたちである。 「おいキョン、話が違うぞ」  |抗議《こうぎ》するように言い出したのは谷口だ。 「|麗《うるわ》しの朝比奈さんはどこだ? あの方が出迎えてくれるって言うから来たんだぜ。いねえじゃねえか」  その通り、朝比奈さんは定刻になっても来なかった。たぶん自宅の部屋で出勤|拒否《きょひ》をしているに違いない。昨日も|一昨日《おととい》も散々な目にあっていたからな。 「俺は目の保養に来たんだぞ。それがどうだ。今日はまだ涼宮の逆ギレした顔しか見てねえぞ。|詐欺《さぎ》だ」  うるさいな。長門でも眺めてりゃいいじゃないか。 「それにしても長門さん、やけに似合ってるなあ」  のんびりと言うのは国木田だ。谷口に続くザコニ号である。昨夜、俺が|風呂《ふろ》に入ってたらハルヒから電話がかかってきた。妹から受話器を受け取り、頭を洗いながら聞いたのが、 「谷口のアホと、もう一人……名前が思い出せないけど、あんたの友達よ。その二人を明日連れてきなさい。ザコキャラで使うから」  だけで切りやがった。|挨拶《あいさつ》の一つくらいしやがれってんだ。ものを|頼《たの》むときは命令調でなくて|哀願《あいがん》調で言ってくれ。朝比奈さんみたいにな。  風呂上がり、さて谷口と国木田の休日予定はどうなんだろうと思いつつ携帯にかけると、このヒマな|端役《はやく》二人はあっさり|承諾《しょうだく》の返事をよこした。お前ら|普段《ふだん》、休みの日に何してんだ?  男二人だけでは絵にならないと思ったのか、ハルヒはもう一人のエキストラを用意していた。そのお方は|鍔広帽子《つばひろぼうし》を|目深《まぶか》に被る長門の顔を、|御辞儀《おじぎ》するように|覗《のぞ》き込んでいる。長い|髪《かみ》の毛をさらりと垂らし、彼女は長身を|伸《の》ばして俺に|笑顔《えがお》を降り注いだ。 「キョンくんっ。みくるどうしたのっ?」  元気よくおっしゃるその女性は、|鶴屋《つるや》さんと言って、朝比奈さんのクラスメイトだ。朝比奈さん|曰《いわ》く「この時代で出来たお友達」だそうだから、この人には変なプロフはないと思う。六月|頃《ごろ》にハルヒが「草野球大会に出る」と言い出したときの|助《すけ》っ|人《と》として朝比奈さんが連れてきた|一般《いっぱん》的な高校二年生女子である。そういやそん時にも谷口と国木田がいたな。ついでに俺の妹も。  鶴屋さんは健康的な白い歯を|惜《お》しげもなく見せつけながら、 「それでさっ、何やんのっ? ヒマなら来てって言われたから来たけどさー。涼宮さんの|腕《うで》に付いてる|腕章《わんしょう》は何て読むのあれ? そのハンディビデオをどうするの? 有希ちゃんのあの|恰好《かっこう》なに?」  |矢継《やつ》ぎ早に質問を浴びせてくる。俺が答えようと|唇《くちびる》を開きかけた時には、鶴屋さんは古泉の前に移動しており、 「わお、一樹くんっ! 今日もいい男だねっ」  せわしない人だった。  しかしその鶴屋さんと元気さではハルヒだってタメを張れる。よくまあ朝からこんな大声が出せるなという声で|携帯《けいたい》電話とケンカしている。 「何言ってんのよ! あなたは主演なのっ! この映画の成功は三十%あなたにかかってるの! 七割はあたしの才能だけどね。それはいいの! なんですって? お|腹《なか》痛い? バカっ! そんなイイワケが通用するのは小学校までよ! すぐ来なさい三十秒で!」  どうやら朝比奈さんは突発的ヒキコモリ|症候群《しょうこうぐん》にかかっているようだ。|是非《ぜひ》もない。今日もあんな目にあうと思ったら精神的腹痛に|罹患《りかん》しても不思議はない。気の小さそうな人だからな。 「もうっ!」  |憤然《ふんぜん》と|携帯《けいたい》を切ると、ハルヒはテーブルマナーのなっていない子供を叱りつける寸前の|執事《しつじ》|頭《がしら》のような目つきをした。 「お仕置きが必要だわ!」  そう言ってやるな。朝比奈さんはお前と違ってひっそりと生活したいんだよ。せめて学校のない日曜くらいは、と俺だって思うぜ。  もちろんハルヒは主演女優のワガママなど聞いてやったりはしないのである。ギャラを|払《はら》ってるわけでもないのに主役に厳しい女流|監督《かんとく》は、 「あたしが|迎《むか》えに行ってくるから、ちょっとその荷物貸して」  |衣装《いしょう》の入ったクリアバッグをひったくると、タクシー乗り場までダッシュした。そして|停《と》まっていたタクシーの窓をガンガン|叩《たた》いてドアを開けさせ、飛び乗ったあげくにどこかへと走り去ってしまった。  そういや俺は朝比奈さんがどこに住んでるのか知らないな。長門の家には何回か訪問したことはあるが……。 「朝比奈さんの気持ちもよく|解《わか》りますよ」  いつの間にか俺の|隣《となり》にいた古泉だった。鶴屋さんは、俺のクラスのマヌケコンビに「やあっひさしぶりっ」とか言って、|奴《やつ》らにペコペコ頭を下げさせている。それを|微笑《ほほえ》んで|眺《なが》めながら古泉は、 「なんせこのまま行くと本物の変身ヒロインになりそうな|雰囲気《ふんいき》ですからね。いくら何でもレーザー光線はやりすぎですよ」 「やりすぎでないものと言えば何なんだ」 「そうですねえ。口から火を|噴《ふ》くぐらいでしたら仕込みもしやすいのですが……」  朝比奈さんは|怪獣《かいじゅう》でも芸人でも悪役レスラーでもないんだ。あの愛らしい唇に|火傷《やけど》でもさせてしまったらどうする。責任の取りようがない。まさかお前、率先して責任を取ろうとか考えているんじゃねえだろうな。 「いえ。僕が責任を感じるのだとしたら、それはあの〈|神人《しんじん》〉の暴走を許してしまった時くらいですよ。幸いにしてそのような事態に|陥《おちい》ったことは……ああ、一回ありましたっけね。あの時はありがとうございます。あなたのおかげで何とかなりました」  半年くらい前にハルヒのおかげでクルクルパーになりかけた世界は、俺の粉骨|砕身《さいしん》たる努力と精神的|消耗《しょうもう》の果てに命脈を保つことになったのだった。各国首脳は俺に感謝状の一枚でも送っておかしくないと思うのだが、まだどこの国からも大使館員は来ていない。まあ、来ても困るだけだから求めているわけでもないけどな。前回俺のもらった|報酬《ほうしゅう》は、|涙目《なみだめ》の朝比奈さんが|抱《だ》きついてくれたくらいのもので、よく考えたらもはや俺はそれで|充分《じゅうぶん》だ。古泉に礼を言われても別に|嬉《うれ》しかない。 「その朝比奈みくるですが」  呼び捨てにするな、|不愉快《ふゆかい》だ。 「失礼。朝比奈さんですけどね、とりあえず怪光線を出すことは何とか|回避《かいひ》できそうです」  どうやってだ? カラーコンタクトの予備をハルヒが用意していないとでも楽観視しているのか? 「いえ、それは折り込み済みですよ。長門さんに協力してもらいました」  俺は駅の売店を見つめたまま|凝固《ぎょうこ》しているベタ|塗《ぬ》り|娘《むすめ》へと目を|遣《や》って、また古泉に|戻《もど》した。 「朝比奈さんに何をした?」 「そんなに目くじらを立てなくとも。レーザー照射をなくしただけです。僕もよく知りません。長門さんは|他《ほか》のTFEI|端末《たんまつ》と違って全然|喋《しゃべ》ってくれませんからね。僕は危険値をゼロにするよう|依頼《いらい》しただけです」 「TFEIって何だ?」 「我々が勝手に付けてる略語です。知らなければならないものでもないですよ。ですが、僕が思うに長門さんは『彼ら』の中でも|一際《ひときわ》|異彩《いさい》を放っているような気がしますね。彼女には単なるインターフェース以外に何か役割があるのではないかと、僕は考えてもいます」  あの無口な読書娘にハルヒを観察する以外の何があるってんだ。まだ朝倉涼子のほうが消えて|惜《お》しまれる存在だったぜ。俺は惜しんでなどいないがな。  待つこと三十分、ハルヒを乗せたタクシーが戻ってきた。同乗しているのはウェイトレス朝比奈さんであり、昨日に続いて暗く|沈《しず》んだお顔をしていらっしゃる。ハルヒは運転手から領収書をもらっていた。タクシー代を経費で落とすつもりかもしれない。  それを見ながら谷口と国木田が何かを言っていた。 「この前なんだけどよ、夜にコンビニまで行った帰りにタクシーとすれ違ったんだ」 「へーえ」 「でさ、ふと見るとそのタクシーの『空車』のランプが『愛車』に見えちまってよ」 「それはビックリだね」 「けど、見直す前にタクシーは行っちまった。そん時気付いたんだ。俺に今不足しているのは愛なんじゃないかってことに」 「本当に『愛車』って書いてあったんじゃないかなあ。個人タクシーだよ、きっと」  こんな会話をしているバカニ人に助勢を|仰《あお》がねばならんとは。人材の|払底《ふってい》もここまで来たかという感想を|抱《いだ》かざるを得ない。谷口と国木田がニッケル合金なんだとしたら鶴屋さんはプラチナだ。ロケット花火とアポロ11号くらいの|違《ちが》いは|余裕《よゆう》であるね。 「やっぽー。みくるーっ、タクシーで来るなんてキミ|誰《だれ》?」  鶴屋さんのテンションも高かったが、ライトなマイルドハイテンションだ。ハルヒのイカレたナチュラルハイとは一線を画していると言ってもいいだろう。まだしも鶴屋さんは常識世界の|範疇《はんちゅう》に所属していると言える。 「うわスゲーっ! エロい! みくるそれどこの店でバイトしてんの? 十八歳未満お断りだねっ。あれ? キミまだ十七じゃなかった? あっそか、客じゃないからいいのかっ」  泣きはらした後の目の色をしている朝比奈さんは両目とも自然色をしている。カラーコンタクトは品切れだったらしい。  ハルヒは|小柄《こがら》なグラマラスウェイトレスを引っ張り出して、 「|仮病《けびょう》を使おうったってそうはいかないんだからね! どんどん|撮影《さつえい》するわよ! これからがみくるちゃんの見せ場の本場なの。すべてはSOS団のため! 自己|犠牲《ぎせい》の精神はいつの世でも|聴衆《ちょうしゅう》の感動を呼ぶのよ!」  お前が犠牲になれ。 「この世にヒロインは一人しかいらないわ。本当ならあたしがそうなんだけど、今回は特別に|譲《ゆず》ってあげる。少なくとも文化祭が終わるまではね!」  てめーがヒロインだなんて世界の誰も認めてねえ。  鶴屋さんは朝比奈さんの|肩《かた》をぽこぽこと|叩《たた》いて|咳《せ》き込ませ、 「これなに? レースクイーン? 何かのキャラ? あ、そうだっ。文化祭の焼きそば|喫茶《きっさ》、これでやりなよっ! すんげー客くるよっ!」  朝比奈さんのヒキコモリ化もよく|解《わか》るね。つるべ打ちを|喰《く》らうのが目に見えているのにマウンドに立ちたがるピッチャーはいない。  ゆるやかに顔を上げ、朝比奈さんは救いを求める|殉教《じゅんきょう》者みたいな目で俺を見て、すぐ|逸《そ》らした。もわもわとしたため息をゆっくりと|漏《も》らして、それでも|気丈《きじょう》に|微弱《びじゃく》な|笑《え》みを見せ、ッッッっと俺のほうまで来た。 「|遅《おく》れてごめんなさい」  俺は目の前に下げられた朝比奈さんの頭頂部を見ながら、 「いや、俺はかまいませんけど」 「お昼はあたしの|奢《おご》りですね……」 「いやいや、気にしなくていいですよ」 「昨日はごめんなさい。あたし、知らないうちに光学兵器を発射してたみたいで……」 「いやいやいや、俺は無事でしたし……」  ささっと|窺《うかが》う。長門は星付きアンテナを持ってぼんやりしている。その俺の様子に、朝比奈さんはただでさえ細くか弱い小声をさらにひそめて、 「|噛《か》まれちゃいました」  左手首をさすっている。 「何にです?」 「長門さんに。なんだか、ナノマシン注入がどうとかって……。でも、目からは何も出なくなったみたい。よかった」  おかげで俺が輪切りになる|恐《おそ》れもない……か。しかし長門が朝比奈さんに噛みついている風景はなかなか想像しにくい。で、何を注入? 「昨日の夜です。古泉くんと|一緒《いっしょ》にあたしの家に来て……」  荷物番をしている古泉はハルヒと何やら話し合っている。ぜひ俺もついていきたかったね。こういう時こそ呼べよな俺を。|閉鎖《へいさ》空間なんぞに|誘《さそ》われるよりは朝比奈さんお宅訪問のほうが楽しいに決まっている。 「なに|内緒話《ないしょばなし》してんのう?」  鶴屋さんがしなやかな|片腕《かたうで》を朝比奈さんの首に|絡《から》めた。 「みくる|可愛《かわい》いなあっ。家で飼いたいくらいだね! キョンくん、仲良くしてやってるーっ?」  それはもう。  谷口と国木田のへっぽこコンビは、半口開けて朝比奈さんを観賞している。見るな。減ったらどうする。と思っているとハルヒが|叫《さけ》んだ。 「場所が決まったわよ!」  何の場所だ。 「ロケの」  そうだったな。ともすれば俺たちの|撮《と》っているのが映画だってことを忘れがちになってしまうね。というか忘れたいね。アイドルタレントの安上がりDVD製作現場のほうが言い得て|妙《みょう》のような気もしているし。 「古泉くんの家の近くに大きめの池があるらしいの。とりあえず今日はそこで撮影することから始めましょう!」  早くもハルヒは「撮影隊一行」と手書きされたビニール製の旗を|掲《かか》げて歩き出している。  俺は、まだ朝比奈さんに失礼な視線を浴びせる谷口と国木田を呼び寄せて、|鞄《かばん》やら|袋《ふくろ》やらを仲良く分け合った。  三十分くらい徒歩で移動し、着いたところは池の|畔《ほとり》だった。|丘《おか》の中ほどにある、ほぼ住宅街の真ん中である。池と言ってもけっこう広い。冬になれば|渡《わた》り鳥がやってくるほどのデカさであり、古泉が言うところによるとそろそろ|鴨《かも》だか|雁《がん》だかがやってくる|頃合《ころあ》いだそうだ。  池の周囲には鉄製フェンスが|施《ほどこ》され、|侵入《しんにゅう》禁止を明示している。それ以前に常識問題だろ。|躾《しつけ》の問題かもしれない。最近は小学生でもこんな所を遊び場にしようとはしないぜ。よほどのアホを除いてな。 「何してんの、さっさと乗り|越《こ》えなさいよ」  こいつがよほどのアホであることを忘れていた。ハルヒは|監督《かんとく》自らフェンスに|脚《あし》をかけ手招きする。朝比奈さんが短いスカートを押さえながら絶望的な顔色に変化して、横にいる鶴屋さんがケラッケラッ笑いながら、 「え? ここで何かすんの? とわっはは! みくる泳ぐの?」  ぶるぶる首を|振《ふ》り、朝比奈さんは緑色の水面を血の池を見るような目で|眺《なが》めた。ため息。 「乗り越えるにはちょっとこの|柵《さく》は背が高いですね。そう思いませんか」  古泉が語りかけているのは俺ではなくて、長門だった。そいつに日常会話をしむけても無益なだけだぞ。イエスかノーか、それとも理解不能な一人|喋《しゃべ》りを始めるかだ。 「…………」  しかし長門は黙ったままではあるが|珍奇《ちんき》にもリアクションをした。フェンスの柱になっている鉄の棒に指をかけ、チョイと横に引いたのだ。強固なはずの鉄柱はなぜか|炎天下《えんてんか》で放置していたキャラメルみたいにぐにゃりと曲がり、そのまま曲がった状態で常態を固定した。  あいかわらず器用な|真似《まね》をする。余計なことでもあったかもしれないが。俺は|慌《あわ》ててその他大勢へと視線を走らせる。 「へえ、古くなってたんだね」  国木田が訳知り顔で言い、 「だから俺は何をすればいいんだ。カッパ役か?」  ぶつぶつと谷口が|隙間《すきま》の空いた鉄柵に|身体《からだ》をくぐらせて池の波打ち|際《ぎわ》へと降り、 「このへん家の近所なんだよねっ。昔は柵なんかなくてさあ、よくハマったよっ」  鶴屋さんも後に続いた。彼女に手を|繋《つな》がれている朝比奈さんも、嫌々のようにハルヒの待ち受ける池の|縁《ふち》へと向かう。  細かいことを考えない|端役《はやく》三人組だった。助かることこの上ない。  古泉が俺と長門に均等に|微笑《ほほえ》みを見せながら柵の内側に身体を|滑《すべ》り込ませて、黒|魔法使《まほうつか》いとなっている長門も|幽霊《ゆうれい》みたいに俺の前を通り過ぎた。  しょうがないな。ささっと|撮影《さつえい》して、パパッと退散しよう。公共物|破壊《はかい》を誰かに|見咎《みとが》められないうちに。  またもや朝比奈さんと長門が向かい合って立っている。またまた|戦闘《せんとう》シーンらしい。本当にハルヒはストーリーを考えているんだろうな。いったいいつになったら古泉の出番はあるんだ。今日も制服姿の古泉は、俺の後ろで反射板係をやっている。  ぬかるみ気味の地面にディレクターズチェアを置き、ハルヒはスケッチブックにセリフと|思《おぼ》しき文章を書き|殴《なぐ》っていた。 「このシーンはね、いよいよミクルが|窮地《きゅうち》に立たされているところなわけ。青目ビームはユキに|封《ふう》じられちゃったわけね」  フェルトペンを止めて、自画自賛の顔をする。 「うん、いい感じだわ。そこのあんた、これ持って立ってて」  そういう具合に谷口がカンペ係になった。演じる二人はふてくされ顔の谷口の手元を見て、 「こここんなことではっあたしはめげないのですっ! わわっ悪い宇宙人のユキさん! しんみょうに地球から立ち去りなさいっ……。あの……すみません」  思わず謝る朝比奈ミクルのセリフに、長門ユキなる悪い宇宙人の魔法使いは、 「…………そう」  気を悪くしたふうもなくうなずいた。それからハルヒの指示通りのセリフを棒読み。 「あなたこそこの時代から消え去るがいい。彼は我々が手に入れるのだ。彼にはその価値があるのである。彼はまだ自分の持つチカラに気付いていないが、それはとてもきちょうなものなのだ。そのいっかんとしてまず地球を|侵略《しんりゃく》させていただく」  ハルヒが指揮者みたいに振り動かすメガホンに合わせ、長門は星アンテナで朝比奈さんの顔を示した。 「そそそそんなことはさせないのですっ。この命にかえてもっ」 「ではその命も我々がいただこう」  フラットな長門の言葉に朝比奈さんは|著《いちじる》しくビクリとした。 「カットーっ!」とハルヒが|叫《さけ》んで立ち上がる。二人の間まで|駆《か》け寄って、 「だんだん気分が出てきたじゃない。そうそう、その調子よ。でもアドリブはなしでお願いね。それからみくるちゃん、ちょいこっち来て」  俺たちを残して監督と主演女優は背を向ける。ビデオカメラを降ろして俺は首をこきこきと鳴らした。何の打ち合わせだろう。  すかさず鶴屋さんが|堪《こら》えていた笑い声を|盛大《せいだい》に上げてケラケラと、 「これ何映画? ってゆうか映画なのっ? わはは、むっちゃ|面白《おもしろ》いよ!」  面白がっているのはあなた以外ではハルヒくらいみたいですけどね。  谷口と国木田は「俺たち何のために呼びつけられたんだ?」という顔でボサッと|突《つ》っ立っているし、長門は一人で知らんぷり、古泉は自然体で|恰好《かっこう》をつけながら池の果てを|眺望《ちょうぼう》している。俺はそろそろ録画で|満杯《まんぱい》になってきたテープを|抜《ぬ》き取って新しいDVカセットの封を切った。ゴミを増やしているとしか思えない。  鶴屋さんが俺の手元を興味深そうに|覗《のぞ》き込んできた。 「ふうん。最近のビデオってこんなん? これにみくるのコッパな画像がいっぱいなの? 後で|観《み》せてくんないっ? |爆笑《ばくしょう》できそうだねっ」  笑いごっちゃない。以前のバニーでビラ配りは一日だけで済んだが、このバカ映画撮影は最悪、文化祭前日あたりまで続く|恐《おそ》れがあるのだ。撮影|拒否《きょひ》がそのうち登校拒否に発展するかもしれん。そうなったら困るのは俺だ。|美味《おい》しいお茶が飲めなくなるからな。長門の|淹《い》れたお茶は味気ないし、ハルヒのは物理的に|不味《まず》い。古泉は論外で、俺は自分で茶を滝れるくらいなら水道水で|我慢《がまん》するね。 「お待たせ!」  ああ待ったね。待ったとも。そろそろ帰ろうぜ。これ以上池付近の自然を|踏《ふ》み|荒《あ》らしたくないからな。 「本格的なのはこれからよ。ほら、見なさい!」  ハルヒがぐいと押し出したのは朝比奈さんである。見ろってお前、言われなくとも毎日のようにジロジロ見ているさ。ほら、いつもと変わりなく美しく|可愛《かわい》らしく|見目麗《みめうるわ》しい朝比奈さんは……。 「えあ?」  片方の目の色が|違《ちが》っていた。今度は右目。銀色の|瞳《ひとみ》が申しわけなさそうに俺と地面を往復している。 「さあみくるちゃん、そのミラクルミクルアイRから何でもいいわ、不思議なものを出して|攻撃《こうげき》しなさいっ!」  よせ、と言うヒマもなかった。あったとしても俺はダルマ落とし的輪切りになるくらいだったろうが、にしても何もかもが|突然《とつぜん》すぎた。ヤバイ命令をしたハルヒも、|驚《おどろ》いてうっかり|瞬《まばた》いてしまった朝比奈さんも、それから——。  朝比奈さんを池辺で押し|倒《たお》している長門の暗幕姿も。  昨日の再現だった。リプレイシーンを見ているようだ。長門が得意の|瞬間《しゅんかん》移動を見せていた。  瞬間、|帽子《ぼうし》だけが元の位置にあって、そこからふわりと地面に落ちる。それを|被《かぶ》っていた本体は、瞬き一回分の時間(たぶんゼロコンマニ秒くらいだろ)に数メートルの|距離《きょり》を移動して朝比奈さんに乗っかっていた。こめかみにアイアンクロー。  |湿地《しっち》でレスリングを始めた女優二人を全員が|唖然《あぜん》として見守っていた。 「ななな長門さっ……、ひぃぃぃっ!」  無言無表情の長門はそんな悲鳴をものともせず、ほんの少しショートヘアを乱しただけで朝比奈さんに|跨《またが》っている。 「ちょっとぉ!」ハルヒがいち早く自分を取り|戻《もど》した。 「有希! あなたは|魔法使《まほうつか》いなのよ! |肉弾《にくだん》戦は不得意って設定なの! こんなところで|泥《どろ》んこプロレスしても——」  しかしハルヒは|途中《とちゅう》で口を|閉《と》ざし、三秒ほど考えてから、 「ま、これでもいいか。売りになりそうね。キョン! ちゃんと|撮《と》って! せっかくの有希のアイデアなんだから」  アイデアではないだろう。反射的な行動だ。コンタクトレンズをどうにかするための防衛|措置《そち》なのだ。朝比奈さんもそれを|解《わか》っているはずだが、|恐怖《きょうふ》のあまりか小悲鳴をあげつつ|脚《あし》をバタバタ。キワドい。いや、そんなサービスショットを|狙《ねら》っている場合ではないのだ。  その時、ガシャンと音がして二人を除く全員が背後を|振《ふ》り向いた。  ハルヒが乗り|越《こ》え、俺たちが|隙間《すきま》を通ってきた池のフェンス。その空間がポッカリと開いている。Vの字型に切り取られたフェンスが道路に|横倒《よこだお》しになっていた。それこそ|誰《だれ》かが不可視のレーザーでも当てたように。  ややあって目を戻すと、貧血気味の|吸血鬼《きゅうけつき》みたいに長門が朝比奈さんの手首に|噛《か》みついていた。 「うかつ」  意外にも長門は自己批判するようなことを言い、 「レーザーは拡散し無害化するように設定した。今度は|超振動《ちょうしんどう》性分子カッター」  息を|吐《は》いてないような口調で|呟《つぶや》く。拾い上げた黒帽子を差し出しながら古泉が言った。 「モノフィラメントみたいなものですね。しかしその単分子カッターは目にも見えなければ、質量もないのですね?」  帽子を受け取った長門は、それを無造作に頭に乗せた。 「|微量《びりょう》の質量は感知した。十の四十一乗分の一グラム程度」 「ニュートリノ以下ですか?」  長門は何も言わず、朝比奈さんの目を見つめている。ウェイトレスさんの右目はまだ銀色のままだ。 「あの……」  噛まれた手首をさすりつつ、朝比奈さんはびくびくと、 「今度はあたしに何を、その、注入したので、ですか……?」  トンガリ帽子の|先端《せんたん》が五ミリ動くくらいの顔の動き。俺にはそれが|困惑《こんわく》の表現に見える。どう説明したものかと|悩《なや》んでいるんだろう。案に|違《たが》わず長門は、 「次元振動周期を位相|変換《へんかん》し重力波に置き|換《か》える作用を持つ力場を体表面に発生させた」  という意味不明なことを苦し|紛《まぎ》れっぼく言った。どうやったらそれが|透明《とうめい》殺人ワイヤーを無効としたことになるのか理解できんが、不可解なことに俺以外の二人はそれなりに|納得《なっとく》したようだ。古泉などは、「なるほど。ところで重力は波動なんですか?」とか関係ないことまで|訊《き》いている。長門も関係ないと思ったんだろう、何も答えないからな。  古泉は決めポーズのような仕草で|肩《かた》をすくめる。 「しかし確かにうかつでしたね。これは僕の責任でもあるでしょう。てっきり目から出るのはレーザービームくらいだとしか思いませんでした。何でもいいから不思議なものを出せ、ですか。涼宮さんの思考は他者の|追随《ついずい》を許しませんね。すごい人です」  追いつくどころか全人類を周回|遅《おく》れにしているようなものだからな。それも3ラップくらいのぶっちぎりで、また後ろに|迫《せま》ってきている|圧迫《あっぱく》感を後頭部に感じるほどだが、パッと見では同一周回を走っているとギャラリーに|勘違《かんちが》いさせるのがミソだ。こればっかりは同じサーキットを走らされている|奴《やつ》にしか解るまいし、ハルヒが速いのはS字だろうがデグナーだろうが立体交差だろうがおかまいなしに直進しかしないからでもある。おまけに一人だけエンジンはパサードラムジェットを使用、いつまでもどこまでも走っていく。追随したくてもできないルールを自分で作り上げているわけで、しかも本人に|八百長《やおちょう》の意識がゼロときている。天然で片づけられる|範疇《はんちゅう》を|超《こ》えたタチの悪さだ。 「まあ幸いにして」と古泉。「フェンスの件は|老朽化《ろうきゅうか》を放置していた地方自治体の管理不行き届きとして|皆《みな》さん、納得しているようですし、大事に至らなくて何よりでした」  俺は帽子に|隠《かく》れた白い顔を|一瞥《いちベつ》する。さっき見せてもらった長門の|掌《てのひら》は、カマイタチのつかみ取りでもしたのかというくらいに|裂《さ》けまくっていた。痛い話が苦手な奴に聞かせたい具合にだ。今は|嘘《うそ》みたいに治っているけど。  俺は|離《はな》れたところにかたまっている第二集団を|眺《なが》めた。ハルヒと|脇役《わきやく》デコボコトリオは、ハンディの映像を見て何やら|嬌声《きょうせい》を上げている……のは鶴屋さんだけか。 「どうするよ? このまま|撮影《さつえい》続行すると何だか|惨事《さんじ》を生むような気がするぞ」 「しかし中止するのもままなりませんね。我々が|強引《ごういん》に映画撮影を|拒否《きょひ》すると涼宮さんはどうなります?」 「暴れ出すだろうな」 「そうでしょう。仮に本人が暴れないようなことがあっても、あの|閉鎖《へいさ》空間で〈神人〉に大暴れさせることは確実です」  けったくその悪いことを思い出させるなよな。俺は二度とあんな所にも行きたくないし、あんなことをしたくもない。 「おそらく涼宮さんは、今の|状況《じょうきょう》が楽しくてしかたがないのですよ。想像力を|駆使《くし》して自分だけの映画を|撮《と》るという|行為《こうい》がです。まさに神のように振る|舞《ま》えますからね。あなたももうご存じの通り、彼女はこの現実が思い通りにならないことに対し常々|苛立《いらだ》っていました。実はそうでもなかったわけなのですが、気付いていないのですから同じ事です。しかしですね、映画の中では彼女の思う通りに物語は進みます。どんな設定であっても可能でしょう。涼宮さんは映画という|媒介《ばいかい》を利用して、一つの世界を再構築しようとしているのです」  つくづく自己中心派だ。思い通りになる事なんて相当の金か権力を持ってないと無理だ。政治家にでもなればいい。  俺がしかめ|面《つら》を何種類か|試《ため》している中、古泉は一種類の|笑顔《えがお》で話し続けている。 「もちろん涼宮さんにそんな自覚はないでしょう。あくまで映画内フィクションとしての世界を|創《つく》っているつもりです。映画制作にかけるひたむきな情熱ですよ。その熱中のあまり、無意識のうちに現実世界に|影響《えいきょう》を|及《およ》ぼしているのだと考えられます」  どっちに転んでもマイナスの目しか出ないサイコロだ。撮影を続けてハルヒの|妄想《もうそう》が暴走してもダメ、やめさせて|機嫌《きげん》を|損《そこ》ねさせてもダメ、バッドエンドまっしぐらの|二択《にたく》だな。 「それでもどちらかに転ばないといけないのだとしたら、僕は続行の道を選びますね」  |根拠《こんきょ》を言ってみろ。 「〈神人〉|狩《が》りもそろそろ|飽《あ》きてきましたし……というのは|冗談《じょうだん》です。すみません。ええとですね、ようはこういうことです。世界が丸ごとリセットされるよりは、多少の変化を許容するほうがまだ生存の道は開けるからですよ」  朝比奈さんがスーパーウーマンになるような現実を許容しろってのか? 「今回の現実変容は〈神人〉に比べると小規模です。長門さんがしてくれたように|防御《ぼうぎょ》修正することだって可能でしょう。世界がゼロからやり直しになることに比べたら、単発的な異常現象をなんとかするほうが簡単のような気がしませんか?」  どう考えてもどっちもどっちだ。ハルヒを後ろからぶん|殴《なぐ》って文化祭が終わるまで気絶させておいたらどうだ? 「|畏《おそ》れ多いことです。あなたが全責任を負ってくれるのならば止めはしませんが」 「俺の|双肩《そうけん》に世界は重すぎるな」  そう答えながら朝比奈さんを見ると、ウェイトレスコスチュームから|生乾《なまがわ》きのドロを指で落としているところだった。なにやら|諦《あきら》めきった顔をしていたが、俺の視線に気付くと|慌《あわ》てたように、 「あ、あたしならだいじょうぶです。何とか乗り切ってみせるから……」  いじらしいね。顔色はあんまり良くないけど。そりゃあ何かあるたびに長門に|噛《か》まれることにはなりたくないよなあ。いくらあっと言う間に噛み|跡《あと》を消してくれるとはいえ、不気味なものは不気味だ。なんせ今の長門は|柄《え》の長い|鎌《かま》を持たせたらタロット十三番目のカードのモチーフにしたいくらいの死神|娘《むすめ》か、|年齢不詳《ねんれいふしょう》のスペースバンパイアだ。どっちだろうとあの世行きは当確している。  朝比奈さんは吸引じゃなくて混入させられたみたいだが。しかし、うかつと言えばどうも朝比奈さんは未来人にしては危機意識がないように思えるな。本心を俺に伝えていないからかもしれんけどさ。なんせ禁則だらけみたいだし。  まあそのうち教えてくれることもあるだろう。その時はもちろん二人きりで、どこか|狭《せま》い所とかでという状況がいいな。  ようやく谷口と国木田、鶴屋さんの出番が|訪《おとず》れた。  ハルヒは三人に映画での役割を申し|渡《わた》し、これにより三名は名も無きチョイ役であることが判明した。役どころは『悪い宇宙人ユキに|操《あやつ》られて|奴隷《どれい》人形と化した|一般人《いっぱんじん》』。 「つまりね」と、ハルヒは気味の悪いニコニコ顔で説明する。「ミクルは正義の味方だから一般人には手を出せないわけ。ユキはその弱点をついたのね。|普通《ふつう》の人間を|催眠魔法《さいみんまほう》で操作するの。そうやって|襲《おそ》ってくる一般人に|抵抗《ていこう》できず|為《な》す|術《すべ》なく、ミクルはボロボロになっちゃうの」  もうすでにボロボロになっている朝比奈さんにこれ以上何をしようと言うんだろう、と俺が思っているとハルヒは、 「手始めに、みくるちゃんを池に|叩《たた》き込みなさい」 「ええっ!?」  |驚《おどろ》きの声を出すのは朝比奈さんきりで、鶴屋さんはゲラゲラ笑い。谷口と国木田は顔を見合わせてから、次に朝比奈さんへと|困惑《こんわく》顔を向けた。 「おいおい」  |妙《みょう》な半笑いで言ったのは谷口だった。 「この|溜《た》め池にかよ? えらく|温《ぬる》いかもしらんが、もうとっくに秋だぜ。水質だってお世辞にもキレイとは言えねえが」 「すっすっす涼宮さん、そのせめて温水プールとかに……」  朝比奈さんも泣きそうな顔で|懸命《けんめい》の反論を|敢行《かんこう》する。国木田ですら朝比奈|擁護《ようご》に回ったようで、 「そうだよ。底なし|沼《ぬま》だったらどうするんだい? 二度と|浮《う》かび上がってこれないよ。ほら、ブラックバスだっていっぱいいるしさ」  朝比奈さんを|卒倒《そっとう》させるようなことを言うな。それに、抵抗すればするほどハルヒは意固地になるのはすでに実証済みである。ハルヒは例によってアヒル口となり、 「|黙《だま》りなさい。いい? リアリズムの前には多少の|犠牲《ぎせい》は付き物よ。あたしだってこのシーンのロケにはネス湖かグレートソルトレイクを使いたかったわよ。でもそんなところに行く時間もお金もないの。限られた時間内に最善を|尽《つ》くすのが人類の使命なわけ。だったらこの池を使うしかないでしょうが」  なんちゅう|理屈《りくつ》だ。どうあっても朝比奈さんは水責めの|刑《けい》になることが前提なのか。別のシーンに差し|替《か》えるとか、そういう考え方はできないのかこの女。  俺も止めに入るべきかと考えていると、背後から|肩《かた》を叩かれた。|振《ふ》り返ると古泉の|野郎《やろう》が|薄《うす》く笑いながら無言で首を振る。|解《わか》っているさ。へたにハルヒをいじくると|奇怪《きかい》な事態がまた発生するかもしれないってことはな。朝比奈さんの口からプラズマ火球が出ちまうようなことになれば、ヘタすりゃ自衛隊を敵に回さなければならん。 「あああ、あたしっ、やりますっ」  悲痛な声で朝比奈さんが宣言した。断腸の思いというやつだろう。世界の平和のために自分の身を犠牲にする|可憐《かれん》な少女の一丁上がりだ。ベッタベタに|手垢《てあか》まみれな展開だが、メイキングビデオではここが一番の盛り上がる部分だろうね。ビデオ回してないけど。  単純にハルヒ大喜び。 「みくるちゃん、イイ! 今のあなたはとっても|恰好《かっこ》いいわ! それでこそあたしの選んだ団員よ! 成長してきたわね!」  成長ではなく、学習した結果だろうと思うね。 「じゃあ、そこの二人はみくるちゃんの手を持って、鶴ちゃんは|脚《あし》を|抱《かか》えちゃって。せーの、で行くわよ。せーので勢いよく池に|放《ほう》り込むの」  ハルヒが指示したのは次のようなシーンであった。  チョイ役三人は、まず長門の前に整列して、黒衣の魔法使いがふらふら動かすアンテナ棒の前で|頭《こうべ》を垂れた。まるで神社でお|祓《はら》いを受けているようだ。|御幣《ごへい》を振るように指し棒を|操《あやつ》っている長門の無表情は、そう言えば何となく|巫女《みこ》っぽい|香《かお》りがしないでもない。  その後、無言で朝比奈さんを指し示した長門の指令電波を受信した三人は、|新鮮《しんせん》な生肉を求めるゾンビのような動きで|硬直《ごうちょく》するヒロインへと歩き出した。 「みくるーっ。ごめんねえ。こんなことしたくないんだけど、あたし操られちゃってるからぁ。ほんと、ごめんよう」  楽しんでるとしか思えない鶴屋さんが|猫《ねこ》型バスみたいな口をしながらウェイトレスににじり寄った。いざというときに小心者になる谷口は迷うフリをしつつ、国木田は頭をぽりぽり|掻《か》きながら、青くなったり赤くなったりする朝比奈さんへと|迫《せま》るのだった。 「そこのアホ二人! もっと|真剣《しんけん》に演じなさい!」  アホはお前だ、という言葉を飲み込んで俺はカメラを|覗《のぞ》き続ける。朝比奈さんはへっぴり|腰《ごし》で、じりじり水辺へと後退していた。 「かくごしろ〜」  明るく言いながら鶴屋さんは朝比奈さんをかくんとコカすと、|露《あら》わになった太ももを|両脇《りょうわき》に抱えた。何というか、もう実にアブナイ。 「ひっ……ひえっ」  本気で|怖《こわ》がっている朝比奈さん。谷口と国木田がそれぞれ片手ずつを持ってぶら下げられる。 「ちちちちょっとその、やっぱり……こここ、これ必要なんですかあ〜?」  悲痛な|叫《さけ》びの朝比奈さんを|一顧《いつこ》だにせず、ハルヒは重々しくうなずいた。 「これもいい|画《え》を|撮《と》るため、ひいては芸術のためなのよ!」  よく聞く言葉だが、こんなデタラメ自主映画のどこに芸術が関係しているのだろう。  ハルヒが号令をかけた。 「今よ! せーのっ!」  ざぼーん。水しぶきが|盛大《せいだい》に上がり、池で暮らす|水棲《すいせい》生物たちの日常を掻き乱した。 「ひ、あぶぅっ……はわぁ……っ!」  |溺《おぼ》れている演技が|巧《うま》いね、朝比奈さん……ではなく、シリアスに溺れているような気がするのだがどうだろう。 「足がっ……届かなっ……あぷっ!」  ここがアマゾン川流域でなくてよかった。こんなふうにバシャバシャしてたらピラニアの|恰好《かっこう》の目印になる。ブラックバスは人を襲わないだろうな——と俺がファインダー越しに思っていると、水しぶきを立てているのは朝比奈さんだけではないことを発見した。 「うげえっ! 水飲んじまった!」  谷口も溺れていた。どうやら朝比奈さんを放り出す勢いで自分まで落っこちちまったらしい。こちらは安心して放っておくことにする。 「何やってんのあのバカ?」  ハルヒも同意見だったらしく、アホ一|匹《ぴき》をほったらかしのままメガホンで古泉を指した。 「さ、古泉くん、あなたの出番よ! みくるちゃんを助けてあげなさい」  照明係に|徹《てっ》していた主演男優は、|優雅《ゆうが》に|微笑《ほほえ》んでレフ板を長門に|渡《わた》すと、池の水辺に歩み寄って手を差し|伸《の》べた。 「つかまってください。落ち着いて。僕まで引っ張り込まないようにね」  |大海原《おおうなばら》の|遭難《そうなん》者が流木にしがみつくように、朝比奈さんは古泉の手をしっかりと|握《にぎ》りしめる。軽々とずぶ|濡《ぬ》れ未来ウェイトレス戦士を引っ張り上げ、古泉はその|身体《からだ》を支えるように寄り|添《そ》った。近寄りすぎだぞ、コラ。 「|大丈夫《だいじょうぶ》ですか?」 「……うう……つめたかったあ……」  ただでさえピッタリしていたコスチュームが濡れたせいで|最早《もはや》スケスケ状態である。俺が|映倫《えいりん》にいれば|躊躇《ちゅうちょ》なくこの映画は十五歳未満入場禁止にするね。正直に言おう、ある意味マッパよりヤバイ。なんか|捕《つか》まりそうな勢いだ。 「うん、バッチリ!」  ハルヒがメガホンを打ち鳴らして絶賛の|雄叫《おたけ》びを放った。俺はまだ池を|泡立《あわだ》てている谷口を無視し、ビデオカメラの停止ボタンを押した。  |無駄《むだ》なものは|露天商《ろてんしょう》を開けるくらいあるくせに、タオルの一枚もないとは何事か。  鶴屋さんのハンカチで顔を|拭《たぐ》ってもらいながら朝比奈さんはじっと目を閉じている。俺はハルヒが|真面目《まじめ》くさった顔をして映像チェックしている|隣《となり》で息を|潜《ひそ》めていた。 「うん、まあまあね」  朝比奈水難シーンを三回も|繰《く》り返して|観《み》ていたハルヒがうなずいた。 「出会いのシーンとしてはまずまずだわ。この段階でのイツキとミクルのぎこちない感じがよく出てる。うむうむ」  そうか? 俺は|普段《ふだん》通りの古泉にしか見えなかったけどな。 「次は第二段階ね。ミクルを救い出したイツキくんは彼女を自宅にかくまうことにするのよ。次のシーンはそっから撮るわ」  って、お前。それじゃ全然|繋《つな》がらないぞ。谷口たちを|操《あやつ》っていた長門はどこに行ったんだ? 谷口たちは? どうやって|撃退《げきたい》されたんだ? いくらザコキャラとはいえ、|描写《びょうしゃ》なしじゃ観客は|納得《なっとく》しないぞ。 「うるさいわね。そんなの撮らなくてもちゃんと観ている人には伝わるのっ! つまんない|箇所《かしょ》は流しちゃっていいのよ!」  このやろう、ただ朝比奈さんを池に|突《つ》き落としたかっただけか。  俺が|義憤《ぎふん》にかられていると、鶴屋さんが挙手して発言した。 「あのさーっ。あたしの家がすぐ近くなんだけどさっ。みくるが|風邪《かぜ》引きそうだから|着替《きが》えさせてやっていいかなっ?」 「ちょうどいいわ!」とハルヒは|輝《かがや》く目を鶴屋さんに向けた。 「鶴ちゃんの部屋を貸してくんない? そこでイツキとミクルが仲良くしてる所を撮りたいから。なんて|潤滑《じゅんかつ》な展開かしら。この映画はきっと成功するわね!」  |御都合《ごつごう》主義が人生のメインテーマらしいハルヒにとっては、なるほど確かに思うとおりの提案なのかもしれないが、ひょっとしたらハルヒがそんなことを考えたから鶴屋さんのこの発言に至った|疑惑《ぎわく》もぬぐい去れない。ハルヒがザコキャラ|認定《にんてい》するくらいだから、鶴屋さんは俺と同じ|一般人《いっぱんじん》のはずだけど。 「えーと、僕たちは?」  国木田の質問である。横で谷口が|脱《ぬ》いだシャツを|雑巾《ぞうきん》みたいに|絞《しぼ》っていた。 「あんたたちはもう帰っていいわ」  ハルヒは無情に告げて、 「ご苦労さん。じぁあね、さよなら。二度と会うことはないかもね」  それきりハルヒの頭からは同級生二人の名前と存在は消え|失《う》せたようである。|呆《あき》れた顔つきの国木田と、犬みたいに|髪《かみ》から|雫《しずく》を飛ばしている谷口を見ることは再びなく、ハルヒは鶴屋さんをガイド役に指名して、すたすた歩き始めた。よかったな二人ともお役|御免《ごめん》で。お前らはどうやらハルヒ的には使用済みBB|弾《だん》くらいの価値しかないみたいだぞ。それは実はけっこう幸せなことなんだぜ。  なぜかノリノリの鶴屋さんは|嬉《うれ》しそうに、 「はーいっ。みなさーんっ、こっちでーす」  先頭に立って旗を|振《ふ》っていた。  ハルヒのワガママ|独壇場《どくだんじょう》は今に始まったことではなく、たぶん生まれついての性質なんだろうし、生後すぐに天地を指して八文字熟語を|絶叫《ぜっきょう》したなんていう言い伝えが後五百年もしたら涼宮ハルヒ語録の一つとして民間伝承となり|流布《るふ》されていたりするのかもしれないが、まあそれはどうでもいいことだ。  集団の|先陣《せんじん》を切って歩くハルヒと鶴屋さんは、いつの間に意気投合したのか|馬鹿《ばか》デカい声でブライアン・アダムスの『18 till I die』のサビだけをリフレインして|唄《うた》っていた。後を歩いている者として、一応の知り合いとして非常に|恥《は》ずかしい。  |黙々《もくもく》歩きの黒長門とレフ板持ち&主演の古泉はよく他人のフリもせずについて行けているな。少しは|肩《かた》を落として|俯《うつむ》き|加減《かげん》にしょんぼり歩いている朝比奈さんを見習うがいい。それから俺の背負っている荷物を少しは肩代わりしてくれ。さっきから続くのは坂道ばかりで、俺はそろそろ|坂路《はんろ》調教中の競走馬の気持ちが|解《わか》りかけようとしているぞ。 「はーい、|到着《とうちゃく》っ。これ、あたしん|家《ち》」  声を張り上げて鶴屋さんが|一軒《いっけん》の家の前で立ち止まった。声も大きな人だったが自宅もデカかった。いや、たぶんデカいんだと思う。なぜなら門から家が見えないので判断できん。しかしそれこそまさに判断材料だ。門から見て取れないほど遠くに家屋があるということは、そこまで相当な|距離《きょり》があるということで、ついでに左右を見回してみるとどこの|武家屋敷《ぶけやしき》かと思うほどの|塀《へい》が遠近法に従って延々と続いていた。どんな悪いことをすればこんな余分な土地を持つ家に住めるのだろう。 「どぞどぞ、入って入ってっ」  ハルヒと長門は|遠慮《えんりょ》という言葉を知らないのか、自分の家みたいな顔をして門をくぐった。朝比奈さんも来たことがあるようで、たいして|驚《おどろ》きもなく鶴屋さんに背中を押されるように入っていく。 「なかなか古風な旧家ですね。この|幽玄《ゆうげん》の|佇《たたず》まい、|趣《おもむき》があるとはこれを指して言うのでしょう。時代を感じさせますねえ」  古泉が|感嘆《かんたん》しているふうを|装《よそお》って感情のこもらない声で言っている。安物のレポーターか、お前は。  三角べースボールが出来そうなスペースを縦断して、やっと|玄関《げんかん》まで|辿《たど》り着いた。鶴屋さんは朝比奈さんを|風呂場《ふろば》まで連れて行ってから、俺たちを自室に招き入れた。  何だね、自宅の俺の部屋が|猫《ねこ》用の|寝室《しんしつ》に思えるね。だだっ広い和室に通されて、どこに座っていいものやら|悩《なや》むくらいだ。だが、悩んでいるのはどうやら俺一人で、ハルヒをはじめとする長門と古泉も何も|恐《おそ》れ入ることはないようだった。 「いい部屋ね。ここでロケができそうなくらいよ。そうだ、古泉くんの部屋だってことにしましょう。みくるちゃんとのツーショットシーンをここで|撮《と》るのよ」  |座布団《ざぶとん》の上でハルヒが指で作った四角形の中を|覗《のぞ》いている。鶴屋さんの部屋は|卓袱台《ちゃぶたい》しかない簡素な|畳敷《たたみじ》き和室だった。  俺は|隣《とな》りに座る長門の|真似《まね》をして正座していたが、三分と|保《も》たずに足を崩させてもらう。ハルヒは最初から|胡座《あぐら》をかいて、鶴屋さんに何やら耳打ちしていた。 「くふっ! あ、それ|面白《おもしろ》いねっ! ちょっと待ってて!」  鶴屋さんは|朗《ほが》らかかつ高らかに笑い声を上げると、そっから部屋を出て行った。  俺は考える。鶴屋さんは一般人で正しいんだろうな。こうまでハルヒと仲良しさんになれるのは|常軌《じょうき》を|逸《いっ》した人間か人間以外の何かだと相場が決まっているのだが、どこかに波長の共通するものがあるのかもしれない。  待つこと数分、鶴屋さんは|戻《もど》って来た。おみやげは朝比奈さんである。それもただの朝比奈さんではない。風呂上がり朝比奈さんだ。彼女はどうやら鶴屋さんの物らしいぶかぶかのTシャツを着ていた。というか、Tシャツしか着ていなかった。 「あ……。お、お待たせを……」  |濡《ぬ》れ髪上気|肌《はだ》の朝比奈さんは、鶴屋さんの後ろに|隠《かく》れるようにして部屋に入り、正座して縮こまる。なんせ|裾《すそ》も|袖《そで》も朝比奈さんには長すぎるので、Tシャツと言ってもワンピースみたいに見える。それがまた|素晴《すば》らしい効果を発揮していた。外し忘れの右目が銀色のままなのは|危《あや》ういが、ビームもスパスパワイヤーも出ないようなので一安心である。|帽子《ぼうし》も取らずにかしこまっている長門をどこかの|摂社《せっしゃ》で|奉《たてまつ》ってやりたいくらいだ。 「はいこれ。飲んじゃって」  鶴屋さんが|床《ゆか》に置いた|盆《ぼん》には、人数分のグラスが|載《の》って|橙色《だいだいいろ》の液体で満たされていた。鶴屋さんから|渡《わた》されたそのオレンジジュースを朝比奈さんは半分くらい|一瞬《いっしゅん》で飲んだ。今日一番動きが多かったからな、水分を|消耗《しょうもう》していたんだろう。  俺も有り|難《がた》く|頂戴《ちょぅだい》し味わいつつ飲んでると、一口で飲み干したハルヒが残った氷をかみ|砕《くだ》きながら、 「さ。せっかくだし、この部屋で|撮影《さつえい》しましょう」  ろくに休むこともなく始まったのは次のようなシーンだった。  気絶した演技をする朝比奈さんを、古泉がお|姫《ひめ》様|抱《だ》きで部屋に入ってくる。なぜかすでに布団が|敷《し》かれていて、古泉はそこに朝比奈さんを横たえると、じっとその|寝顔《ねがお》を|眺《なが》めるのだった。  朝比奈さんの顔はかなり紅潮、|睫毛《まつげ》がぴくぴくしている。その無防備な|身体《からだ》に古泉はそっとタオルケットをかぶせ、|腕《うで》を組んで|枕元《まくらもと》に座った。 「うーん……」と朝比奈さんが寝言のようなことを|呟《つぶや》き、古泉は口元を|緩《ゆる》めた顔で注視し続ける。  ここでは出番のないらしい長門は、俺と鶴屋さんの背後でまだオレンジジュースをちびちび飲んでいた。俺はファインダーを覗きながら朝比奈さんの寝顔をアップにする。ハルヒが何も指示しないものだからこのあたり、俺の|趣味《しゅみ》の世界である。しかしハルヒは主演二人にはリアルタイムで指示を出し続けていた。 「みくるちゃん、そろそろ起きて。セリフはさっき言った通りよ」 「……ううー」  朝比奈さんはゆっくり目を開け、|妙《みょう》に|潤《うる》んだ目つきで古泉を見上げる。 「気が付きましたか?」と古泉。 「はい……。ええと、ここは……」 「僕の部屋です」  むくりと上半身を起こした朝比奈さんは、なぜか熱っぽい顔で視点の定まらない目をしている。なんかやけに色っぽいが、これは演技なのか? 「あ……ありがとうございます、う」  すかさずハルヒ指示、 「そこで二人! もっと顔を近づけて! でもってみくるちゃんは目を閉じて、古泉くんはみくるちゃんの|肩《かた》に手を回し、もういいから押し|倒《たお》してキスしちゃって!」 「ええっ……」  どういうわけかトロンとした目つきで朝比奈さんは口を半開きにして、古泉が言いつけ通りに朝比奈さんの肩を抱いたところで、俺の|我慢《がまん》が限界に達した。 「待てこら。いろいろ|端折《はしょ》りすぎだぞ。ってより、なんでこんなシーンがある? なんだこれは?」 「濡れ場よ濡れ場。ラブシーン。時間帯またぎにはこういうのを入れておかないと」  アホか。これは夜九時から始まる二時間ドラマか。古泉も、何を乗り気な顔をしてやがるんだ。こんなものが上映されたら、次の日からお前の|下駄箱《げたばこ》には百単位で|呪詛《じゅそ》の手紙が|舞《ま》い込むぞ。少しは考えろ。  |誰《だれ》かのケラケラ笑いが聞こえて|振《ふ》り向くと、畳の|縁《ヘり》に|爪《つめ》を立てるように身体を折って、鶴屋さんが|爆笑《ばくしょう》していた。 「ひひーっ、みくる、おかしーっ」  おかしくない……と言いたいのだが、明らかに朝比奈さんは通常ではなかった。さっきから首が|据《す》わってないし、目が潤みっぱなしの|頬《ほお》染めっぱなし、しかも古泉に肩|抱《だ》かれても|無抵抗《むていこう》にされるがままになっている。|面白《おもしろ》くない。 「うー……。こいすみくん、あたしなんだかあたまがおもいのねす……ふ」  ネズミに花束を|捧《ささ》げたくなるようなことを言いながら、朝比奈さんは身体をぐらぐらさせている。薬でも盛られたのかという感想を持ち、俺は気付いた。視線が空のグラスへと自然に向き、鶴屋さんが笑いつつ、 「ごっめーんっ。みくるのジュースにテキーラ混ぜといたの。アルコールが入ったほうが演技に|幅《はば》が出るかもっていわれてさっ」  ハルヒの|悪巧《わるだく》みか。俺は|呆《あき》れるより|怒《おこ》りそうになった。そんなもん|黙《だま》って混入するな。 「いいじゃん。今のみくるちゃん、すごく色っぽいわよ。画面|映《ば》えするわ」とハルヒ。  もはや演技どころではなく朝比奈さんはすでにフラフラになっていた。閉じた目の下が赤く染まっている。色っぽいのはいいが、古泉にもたれかかっているのは|不愉快《ふゆかい》だ。 「古泉くん、いいからキスしなさい。もちろんマウストゥマウスで!」  ダメに決まっているだろう。前後不覚になっている人間にやっていいことではないぞ。 「やめろ、古泉」  |監督《かんとく》とカメラマンのどちらの言葉に従うか、古泉はしばらく考える|真似《まね》をした。|殴《なぐ》るぞこの|野郎《やろう》。どのみち俺はハンディを降ろしている。そんなシーンを|撮《と》るつもりも撮らせるつもりもない。  古泉は俺を安心させるように|微笑《ほほえ》んで、フラつく主演女優から|離《はな》れた。 「監督、僕には荷が重すぎますよ。それに、朝比奈さんはもう限界のようですし」 「……あたしならたいじょうふすよ?」  そう言う朝比奈さんは見るからに|大丈夫《だいじょうぶ》ではなかった。 「もう。しょうがないわねえ」  ハルヒは|唇《くちびる》を|尖《とが》らせて、|酔《よ》いどれ|娘《むすめ》へとにじり寄った。 「あら、コンタクトつけたままだったの? ここはハズしとかないといけない場面よ」  朝比奈さんの後頭部をぽかりと|叩《たた》く。 「いっ……いたい」と朝比奈さんは頭を押さえる。 「ダメじゃないのみくるちゃん! こうして頭を叩かれたら目からコンタクトを飛び出させないと。じゃあもう一度、れんしゅう」  ぽかり。 「いたっ」  ぽかり。 「……ひい」と朝比奈さんはぎゅっと目を閉じる。 「やめろバカ」と俺はハルヒの手を|握《にぎ》って制止した。「なにが練習だ。これのどこが演出なんだ? 何が面白いんだよ」 「なによ、止めないでよ。これも約束事の一つなのっ!」 「誰との約束だそれは。ちっとも面白くない。つまらん。朝比奈さんはお前のオモチャじゃねえぞ」 「あたしが決めたの。みくるちゃんはあたしのオモチャなのよ!」  聞いた|瞬間《しゅんかん》、俺の頭に血が上った。視界が赤く染まったような気すらした。本気で頭に来た。一瞬で|衝動《しょうどう》が思考を|凌駕《りょうが》する、それは無我の境地での反射的行動だと言って差し|支《つか》えない。  俺の手首を誰かが握っていた。古泉の野郎が目を細めて小さく首を振っている。古泉が俺の右手を止めているのを見て、俺は初めて自分が握り|拳《こぶし》を振りかざしていることに気付く。俺のこの右手は、今まさにハルヒをぶん殴ろうとしていたようだった。 「何よっ……!」  ハルヒはプレアデス星団みたいな光を|瞳《ひとみ》に宿しつつ、俺を|睨《にら》みつけていた。 「何が気に入らないって言うのよ! あんたは言われたことしてればいいの! あたしは団長で監督で……とにかく|反抗《はんこう》は許さないからっ!」  再び俺の目の前が真っ赤になった。このクソ女。放せ古泉。動物でも人間でも、言って聞かない|奴《やつ》は殴ってでも|躾《しつけ》てやるべきなんだ。でないとこいつは一生このまま|棘《とげ》だらけ人間として|誰《だれ》からも|避《さ》けられるようなアホになっちまうんだ。 「やや……やめてくらさぁいっ!」  飛び込んできたのは朝比奈さんだった。ろれつの|怪《あや》しい声で、 「だめだめですっ。けんかはだめなのです……っ」  俺とハルヒの間に|身体《からだ》を割り込ませた朝比奈さんは、赤い顔のままずるずると|崩《くず》れ落ちた。ハルヒの|膝《ひざ》に|抱《だ》きつくようにして、 「うう……っぷ。みんなはなかよくしないといけません……。そうしないと……んー。ああこれきんそくでしたぁ」  くたりと朝比奈さんは、何かモゴモゴ言いながら目を閉じた。そして、すうすう|寝息《ねいき》を立てながら|眠《ねむ》り込んでしまった。  俺と古泉は坂道を下りながら歩いていた。眼下に広がっているのは先ほどの|溜《た》め池である。  女優が使い物にならなくなったので|撮影《さつえい》は中止になった。眠る朝比奈さんを鶴屋さんに任せて俺と古泉、長門は|大邸宅《だいていたく》を辞去することにしたのだが、なぜだかハルヒだけは一人で残ると言い張って俺からビデオカメラを取り上げ、すぐに背中を向けた。俺も何も言わず、雑多な荷物だけを|抱《かか》えて鶴屋さんの見送りを受けることとなった。 「ごめん、キョンくん」  鶴屋さんは申しわけなさそうに、しかしすぐに|笑顔《えがお》となって、 「あたしもちょっと調子に乗り過ぎちゃったよ! みくるのことは心配しないで。後で送っていくか、なんなら|泊《と》めるからっ!」  長門は門を出てすぐテクテク立ち去った。何の感想もないようだ。長門はそうだろうよ。あいつはいつだって無感想なのさ。  そして|肩《かた》を並べての帰り道、|黙然《もくぜん》と五分ほど歩いたところで古泉が口を開いた。 「あなたはもっと冷静な人だと思っていましたが」  俺もそのつもりだったさ。 「すでに現実がおかしくなっているのに、さらに|閉鎖《へいさ》空間まで生みかねない|真似《まね》は|慎《つつし》んでいただきたいですね」  俺の知ったことか。『機関』だか何だかいうインチキくさい秘密結社はそのためにあるんだろうが。お前たちが何とでもしたらいい。 「さっきの一件ですが、なんとか涼宮さんの無意識は自制してくれたようですね。閉鎖空間はどこにも出ていないようです。僕からのお願いです、明日には仲直りしてくださいよ」  どうしようと俺の勝手だ。お前に言われてハイそうですかと返答できるわけもない。 「まあ、それより今は、現在に彼女が|影響《えいきょう》を|与《あた》えている現実空間をどうにかすることを考えましょうか」  白々と、古泉は話の|舳先《へさき》を変えた。俺もそれに乗ることにする。 「考えるってもな。何がどうなってこうなっているのか、俺には|解《わか》らんぞ」 「簡単な|理屈《りくつ》です。涼宮さんが何かを思いつくたびに、この現実は|揺《ゆ》らぐのです。今までもそうだったじゃないですか」  俺は灰色の世界で|破壊《はかい》の限りを|尽《つ》くしていた青い|巨人《きょじん》を思い出す。 「涼宮さんが何かを言い出し、我々がそれに対処する。なぜかと言えば、この世界でのそれが我々の役割だからですよ」  赤く光る球体の数々を俺は覚えている。古泉はゆったり歩きながら確信を|込《こ》めたような声で言う。 「我々は涼宮ハルヒのトランキライザー、精神安定|剤《ざい》です」 「そりゃあ……おまえはそうだろうが」 「あなたもですよ」  元・|謎《なぞ》の転校生は崩れない|微笑《びしょう》を作り続けている。 「我々は閉鎖空間が主な作業場ですが、あなたはこの現実世界担当です。あなたが涼宮さんの精神を安静にしてくれていれば、閉鎖空間も生まれませんからね。おかげさまでこの半年、僕のアルバイト出動数も減ってきています。お礼を言っておくべきでしょう」 「言わなくていい」 「そうですか。なら言いません」  坂を下り終えて県道に出る。古泉の|沈黙《ちんもく》もそこまでだった。 「ところでこれから付き合ってもらいたい所があるのですが」 「いやだと言ったら?」 「すぐに着きますし、そこで何をするわけでもありませんよ。もちろん閉鎖空間へのご招待でもありません」  古泉が不意に片手を挙げた。俺たちの真横に|停《と》まったのは、どこかで見たような|黒塗《くろぬ》りのタクシーだった。 「話の続きですがね」 後部座席のシートに背をあずけ、古泉が言っている。俺は運転手の後頭部を|眺《なが》めていた。 「現在、涼宮さんとあなたを取り巻く状況《じょうきよう》はパターン化しています。涼宮さんの気まぐれを、あなたや僕たち団員が具体化して形にするという|枠組《わくぐ》みが出来上がっているのですよ」 「|迷惑《めいわく》だ」 「でしょうね。ですが、このパターン化した現状がいつまで続くかは解りません。同じような事態の繰り返しは、おそらく涼宮さんが|嫌《きら》うものの一つでしょうから」  今は楽しんでいるようですがね、と言って|緊迫《きんぱく》感に欠ける笑顔になった古泉は、 「涼宮さんのハメ外しが映画の内部だけに|留《とど》まるように、何とか努力しなければなりません」  野球選手になるためにはバットの|素振《すぶ》りや走り込みから始めればいいし、|棋士《きし》を目指すなら将棋や|囲碁《いご》のルールを覚えることからスタートすべきだし、期未試験でトップをとるには|徹夜《てつや》で参考書を|睨《にら》む志を持つところから開始すればいいかもしれない。つまり努力するための方法論が人それぞれだろうが存在するわけだ。しかし、ハルヒの脳内|妄想《もうそう》を|削除《さくじょ》するにはいったいどんな努力を|払《はら》えばいいんだ?  やめろと言ったらむくれてクソいまいましい灰色の空間を|増殖《ぞうしょく》させるだろうし、かと言って、このままホイホイと|奴《やつ》の妄想に付き合っていたらその妄想が現実になりそうな気配なのだ。  どっちを取っても|両極端《りょうきょくたん》だな。あいつには|中庸《ちゆうよう》という|概念《がいねん》がないのか。まあ、ないからこそ涼宮ハルヒはまさに涼宮ハルヒ以外の|誰《だれ》でもないわけだが。  車外の風景は|徐々《じょじょ》に緑が多くなってきた。|蛇行《だこう》した山道をタクシーは|駆《か》け上がっている。すぐに解る。昨日はバスで|辿《たど》った山へ続く道だった。  やがて停車したのは、がら空きの|駐車場《ちゅうしゃじょう》。神社の参拝客専用だ。昨日ハルヒが|神主《かんぬし》と|鳩《はと》に|銃口《じゅうこう》を向けるという暴挙をおこなった、あの神社である。おかしいな。日曜の今日なら、もっと人がいてもよさそうなものだが。  タクシーから先に降りていた古泉が、 「涼宮さんの昨日の言葉を覚えていますか?」  あんな|妄言《もうげん》の数々をいちいち覚えていられるか。 「行けば思い出しますよ。どうぞ|境内《けいだい》へ」それから言い足した。「今朝にはもうこの状態だったようですよ」  角石を積み重ねて作られた階段を上がっていく。これも昨日来た道だ。ここを上がると鳥居があって、|本殿《ほんでん》に続く|砂利《じゃり》道があり、そこには|土鳩《どばと》の群れが……。 「…………」と俺は沈黙する。  わらわらいたのは確かに鳩だった。移動式|絨毯《じゅうたん》のように地面をつつき回している鳥類の一群。しかし昨日と同じ鳩たちなのかどうかは自信がない。  なぜなら、一面に広がる鳩連中の羽根が一|羽《わ》残らず真っ白に変わっていたからだった。 「……誰かにペンキでも|塗《ぬ》られたのか」  それもたった一夜で。 「|間違《まちが》いなく、この白い羽根は鳩の|身体《からだ》から生えている彼等自前のものです。染められたのでも|脱色《だっしょく》でもありません」 「昨日のハルヒの|銃撃《じゅうげき》かよほどの|恐怖《きょうふ》だったんだな」  それとも誰かが大量の白鳩を持ってきて、先住の土鳩と入れ|替《か》えたんじゃないのか。 「まさか。誰がそんなことをする必要があります?」  考えてみただけだ。結論はもう俺の中にある。口にしたくないんだよ。  昨日、ハルヒはこんなことを言っていた。 『できれば全部白い鳩にしたいんだけど、この際どんな色でも目をつむるわ』  つむってねえじゃねえか。 「そういうことです。これも涼宮さんの無意識のなせる|業《わざ》でしょう。一日の誤差があったのは幸いですね」  エサをくれるとでも思ったか、ざわめく鳩たちか俺たちの足元に寄ってくる。|他《ほか》に参拝客はいない。 「このようにですね、涼宮さんの暴走は着実に進行中なわけですよ。映画作りの|弊害《へいがい》が、現実世界に押し寄せてきているのです」  朝比奈さんの目から光線やらワイヤーを出させただけでは|充分《じゅうぶん》ではないのか。 「ハルヒを|麻酔銃《ますいじゅう》で撃つとかして文化祭が終わるまで|眠《ねむ》らせておいたらいいんじゃないか?」  俺の提案を、古泉は|苦笑《くしょう》でもって|応《こた》えた。 「できなくはないでしょうが、目覚めてからのアフターフォローをしてくれますか?」 「いいや」  そんなサービスは俺の業務の中に入っていない。古泉は|肩《かた》をすくめた。 「ではどうしましょうね」 「あいつは神様なんだろ。お前ら信者がなんとかしろよ」  わざとらしく古泉は|驚《おどろ》く様子を演じた。 「涼宮さんが神ですって? さて、誰がそんなことを言ったのですか?」 「お前じゃねえか」 「そうでしたね」  こいつこそ、ぶん|殴《なぐ》るべきだろう。  古泉は笑い、お決まりのセリフ、「|冗談《じょうだん》です」と言ってから、 「実際、涼宮さんを『神』と定義しても問題ないだろうとは思いますね。『機関』内の意見は|大勢《たいせい》において彼女を『神』視しています。もちろん反対意見もありまして、個人的には僕も|懐疑論《かいぎろん》者の一派です。と言いますのは、もし彼女が本当に神ならば、その自覚もなしにこの世界の内側に住んでいるわけがないと思えるからです。創造主というモノはどこか遠くの上の方で、我々を|鳥瞰《ちょうかん》しながら|奇蹟《きせき》の数々を自在におこない、我々が|慌《あわ》てふためく様を|冷徹《れいてつ》に観察していることでしょうから」  俺はしゃがみ込んで落ちていた羽毛を拾った。そのままの姿勢で羽根を指先で回す。鳩の動きが大きくなった。すまないな、パン|屑《くず》の用意はないんだ。 「僕はこう考えます」  古泉は一人で|喋《しゃべ》っている。 「涼宮さんは神のごとき能力を誰かから|与《あた》えられ、しかしその自覚は与えられていません。神たる存在がいるのだとしたら、涼宮さんこそがその神に選ばれた|特殊《とくしゅ》な人間ということになります。あくまで人間ですよ」  あいつが人間だろうが人間外だろうが俺には大して思い入れはない。しかし、なんでハルヒにそんな無意識タネ無しマジカルパワーが、鳩を白くしたり出来る能力があるんだ。何のために。誰のために。 「さあねえ。|解《わか》りませんね。あなたには解るんですか?」  こいつは|誰《だれ》にケンカを売っているんだ。 「これは失礼を」と|微笑《ほほえ》みつつ、古泉は言葉を|継《つ》いだ。 「涼宮さんは世界を構築するものであり、同時に|破壊《はかい》するものでもあります。もしかしたら我々のこの現実は失敗作なのかもしれない。その失敗した世界を修正する使命を持った者が、涼宮ハルヒという存在なのかもしれない」  言ってろ。 「となれば、つまり我々が間違っているのです。正しいのは常に涼宮さんで、彼女の|行為《こうい》を|邪魔《じゃま》する我々こそが、この世界の異分子、それどころか涼宮さん以外の全人類が間違っていることになる」  ふーん。それはたいへんだねえー。 「問題は間違った側にいる我々です。世界が正しい世界に再構築されたとき、我々は果たしてその世界の一部になることができるのでしょうか? バグとして|排除《はいじょ》されるのでしょうか? 誰にも解りません」  解らんのなら言うな。しかも解ったような口調でな。 「しかしある意味で、今までの彼女があまり|巧《うま》く世界を構築できていないのも確かです。それはですね、彼女の意識が創造の方向に向いているからですよ。涼宮さんは非常にポジティブな人です。ですが、これが逆方向へ向かえばどうなるでしょう」  |黙《だま》る気はないらしい。あきらめて俺は|訊《き》いてやった。 「どうなるんだ」 「解りません。ですが、何であろうとも|創《つく》るよりは|壊《こわ》すほうが簡単なのです。そんなものは信じないから消え|失《う》せろ、それだけでいいのですよ。そうすれば何だろうと『無い』ことになるでしょう。すべてをキャンセルできてしまいます。たとえどんなに強大な敵が現れようと、涼宮さんはその連中を否定するだけで|消滅《しょうめつ》させることができます。|魔法《まほう》だろうと高度な科学技術だろうと、何が相手でもね」  だがハルヒは否定しないだろう。それはあいつが切に待ち望んでいるものだろうからな。 「それが困りものなんですよね」  古泉は困ってない声で|囁《さきや》くように、 「涼宮さんが神なのか神に似た何かなのかは解りようもないと僕は考えますが、ただ一つ言えることがあります。もし彼女が自由に自分の力を|振《ふ》るって、その結果世界が変化したとしても、変化したことに誰も気付かないだろうということです。これはちょっと|凄《すご》いですよ。なぜなら、その変化は涼宮さん本人でさえ気付きようがないでしょうから」 「なぜだ」 「涼宮さんもまた世界の一部だからです。これは彼女が造物主ではないという|傍証《ぼうしょう》の一つですね。世界を創りたもうた神ならば、世界の外側にいるはずです。しかし彼女は我々と同じ世界で生きている。あげく|半端《はんぱ》な改変しかできないのは不自然、非常におかしな話です」 「俺にはお前のほうがおかしく見えるぜ」  古泉は無視して続きを語る。 「ですが、僕は今まで暮らしてきたこの世界が割と好きなんです。様々な社会的|矛盾《むじゅん》を|秘《ひ》めていたりはしますが、それは人類がいつかどうにか出来ることでしょう。問題なのは、天動説が正解で太陽は地球の周りを回っている、みたいな改変が起きることです。涼宮さんにそんなことを信じ込ませないように、僕たちは何とかしようとしているのです。あなたもそう思ったから|閉鎖《へいさ》空間から|戻《もど》ってきたのでしょう?」  さあ、どうだったかな。忘れちまったよ。思い出したくない過去は|封印《ふういん》することにしているのさ。  古泉は口先だけで笑った。|自嘲《じちょう》のような|笑《え》みだった。 「|柄《がら》にもないこと言ってしまいましたね。まるで自分たちが世界を守っていると|勘違《かんちが》いした正義側人間のような言いぐさでした。これは失礼を」 [#改ページ]  第五章  月曜の朝は、すでにもう文化祭まで一週間を切ってるってのに相変わらずユルい空気だった。本当に文化的な祭りをする気があるのかこの学校は。もっとバタバタしててもいいんじゃないか? いくらなんでも|悠長《ゆうちょう》すぎるような気配だ。おかげでこっちはタルい。しかも教室へと歩いている|途中《とちゅう》に、さらにタルくなりそうな場面が俺を待ち受けている。  俺の教室の前で、古泉が|壁《かべ》にもたれて立っていた。昨日あれだけ|喋《しゃべ》っといて、まだ何かあると言うのか。 「九組の演目、|舞台稽古《ぶたいげいこ》が早朝からありましてね。ここにはたまたま通りかかったんですよ」  朝からお前のニヤケ|面《づら》を見たりしたくはなかったが。 「どうした。あのマヌケ空間がやっぱりまた発生したとか言うんじゃないだろうな」 「いえ。昨日はとうとう出ませんでした。どうも今の涼宮さんはイライラするより、しょんぼりすることに|忙《いそが》しいみたいですよ」  なぜだろう。 「解っておられるはずですが……。なら説明しましょう。涼宮さんは、あなただけは何があろうと自分の味方をすると思っていたのです。いろいろ文句を付けつつも、あなたは彼女の|肩《かた》を持つわけです。何をしでかしたとしても、あたただけは許してくれるだろう、とね」  何が、とね、だ。あいつのすべてを許せるのは、とうの昔に|殉教《じゅんきょう》した歴史上の聖人くらいだぜ。言っておくが俺は聖人でも|偉人《いじん》でもない、常識的な|凡人《ぼんじん》だ。 「涼宮さんとはどうなりました?」  どうもなってたまるか。あのままだ。 「元気を出すように言ってもらえませんかね? 白い|鳩《はと》ならまだ|可愛《かわい》いものです。このまま涼宮さんの気分が|沈《しず》み続けると、神社の鳩がもっと鳩らしからぬモノに入れ|替《か》わってしまうかもしれませんよ」 「何にだよ」 「それが解ったら苦労はなしです。ネトネトして複数の|触手《しょくしゅ》で|這《は》い回るようなものの大群が|境内《けいだい》を|蠢《うごめ》いていたら不気味でしょう?」 「塩を|撒《ま》けばいい」 「それでは根本的な解決にはなりませんね。現在の涼宮さんは宙ぶらりんです。今までは映画|撮影《さつえい》を通して積極的に現実を変容させてしまったわけですが、昨日のあなたとの一件で、いきなりベクトルが逆走してしまいました。ポジティブからネガティブへです。それで事態が収まればいいのですが、このままではより一層|酷《ひど》いことになりそうなんですよ」 「それで。俺にあいつを|慰《なぐさ》めろって言うのか?」 「そうややこしい話でもないでしょう。元の|鞘《さや》に戻ってくれればいいだけですから」  元も何も、俺はそんな鞘に収まっていたことなんかないぞ。 「はて。あなたの頭も冷えている|頃合《ころあ》いだと思っていたのですが、見込み違いでしたか?」  俺は押し|黙《だま》った。  昨日カッカきちまったのは、朝比奈さんへの|暴虐《ぼうぎゃく》を見かねた俺の善良なる心がそうさせた——とも限らない。カルシウムが不足していただけたのかもな。昨日の晩に牛乳一リットルほど飲んで|寝《ね》て起きたら、不思議と治まったからな。プラシーボ効果かもしれないが。  かと言って、なぜ俺のほうから歩み寄らねばならんのだ。|誰《だれ》がどう判断したって、あいつはハシャギ過ぎだったろうが。  古泉はえづいた|猫《ねこ》みたいに|喉《のど》を鳴らす笑い声を|漏《も》らし、俺の肩をハタいた。 「よろしく|頼《たの》みますよ。|距離《きょり》的に、あなたが一番近い場所にいるのですから」  真後ろに座るハルヒとは俺が|振《ふ》り向かない限り目を合わすことがない。今日は一段と空模様が気になるようで、ハルヒはほとんど窓の外を|眺《なが》めていて、そのままの状態を昼休みまで続けていた。  加えて、どういう伝染病なのか、谷口までもがご|機嫌斜《きげんなな》めだった。 「何が映画だ。昨日は行って損した」  昼休み、弁当を|喰《く》いながら谷口は|憎《にく》まれ口を|叩《たた》いていた。休み時間のハルヒは|滅多《めった》に教室におらず、今もそうだ。いたらこいつもそんなことを言えないだろう。気の小さい|奴《やつ》に限って安全|圏《けん》では声が大きいのさ。 「涼宮のやることだ。その映画とやらもどうせゴミみたいなものになる。決まってるぜ」  誰に言われたっていい。俺は自分が|偉《えら》い人間だとは思ってないし、歴史に名を刻むこともしそうにない。|片隅《かたすみ》のほうで一人ブツブツ|呟《つぶや》いているような人間だ。自分じゃ料理も出来ないのに母親の作った食い物にイチャモンをつけるようなことが得意だ。  だがこれだけは言っておきたい。ので、俺は言った。 「お前にだけは言われたくないぜ」  谷口、お前は何をやっている? 少なくともハルヒは文化祭に参加して何かをしようとしている。|迷惑千万《めいわくせんばん》なことにしかならないだろうが、少なくとも何もしないで文句だけ言ってる奴よりマシだ。このアホめが。全国の谷口さんに謝るがいい。貴様と同じ名字であることはお前以外の谷口さんたちにとって|不愉快《ふゆかい》でしかないぞ。 「まあまあキョン」  国木田が間に入った。 「彼はスネてるんだよ。ほんとは涼宮さんたちともっと遊びたいんだ。キョンがうらやましいんだよ」 「んなこたぁねえ」と谷口は国木田を|睨《にら》んだ。「俺はあんなアホ集団の仲間入りをする気はねえ」 「|誘《さそ》われたらついていくクセに? 昨日だって喜んでたじゃん。どっか出かける予定をキャンセルしてまでさ」 「言うな、バカ」  谷口が不機嫌なのはそのせいだったのか。せっかくの予定をすっ飛ばして来たと思ったら、ほとんど写してもらえないまま退場を宣告されたのだからな。池にまで落ちていた。なるほど、同情に|値《あたい》するかもしれない。だが俺はそんな気にはなれないね。なぜなら、俺は俺で腹を立てていたからだ。  ハルヒの映画が目も当てられないほど下らないものになるのは俺にも|解《わか》っている。いつもの後先考えない全力|疾走《しっそう》をやってるわけだから、その日その時間に|撮《と》りたいと思ったことを撮っているだけ、|繋《つな》がりも演出も何にもなしだ。それで|凄《すご》い映画が出来上がったりしたら、それは天才の|仕業《しわざ》で、そして俺の見たところハルヒに|監督《かんとく》の才はない。だからと言って、それを他人から|指摘《してき》されるのは——さて、なんで腹立つのかと言うと……。 「どうしたのさキョン。今日は涼宮さんもいつもより機嫌悪そうだしさ。何かあったの?」  国木田の声を聞きながら俺は考えていた。  俺も谷口と同じだ。ハルヒの言うがままにへいこらしてはブツブツ言ってるだけだ。俺がこいつに感じたことは、そっくり俺自身にも当てはまる。ハルヒのやることなすことにツッコミを入れて回りうんざりする気分になるのは……、だから俺の仕事である。俺だけの役割だ。他人に|譲《ゆず》るつもりがないのではなく、そういうことになっているのだ。  むしゃくしゃした気分で喰う飯のなんと|美味《うま》くないことか。これでは作ってくれた母親に悪い。くそ、谷口のゲロハゲ|野郎《やろう》。お前が余計なことを言うからだぞ。だから、俺はこれからのちのち|後悔《こうかい》するようなことをしたくなってきたじゃねえか。  俺は何をしたか。  弁当箱にフタをすると、そのまま教室を飛び出したのだ。  ハルヒは文芸部室にいて、ビデオカメラとパソコンを繋いで何かをやっているようだったが、俺がいきなり|扉《とびら》を開けたのを見て、|驚《おどろ》いたように顔を上げた。左手に持ってるのはカレーパンか。  そのパンを|慌《あわ》てたように|放《ほう》り出し、後ろに手を|伸《の》ばして|髪《かみ》を|触《さわ》っている——と思ったら、はらりと黒髪がほどけた。理由は知らないがくくっていた後ろ髪を慌てて解いたらしい。よく見ていなかったし、そんなことは後で考えればいいことだ。俺は今言わなければならないことを言った。 「おい、ハルヒ」 「なによ」  ハルヒは|戦闘《せんとう》態勢に移行しつつある|猫《ねこ》のような顔でいる。その顔に、俺は言ってしまった。 「この映画は絶対成功させよう」  勢いというやつだ。一年に二回くらいは俺だってハイになる時がある。昨日頭に来たのだってそのせいだ。たまたまそれにかち合ってしまったのだよ。それが今日は古泉の|妙《みょう》な話やら谷口のアホ|面《づら》やらハルヒの|鬱顔《うつがお》が何かこう、こんがらがって俺もガタガタになってしまっていたのだ。この|衝動《しょうどう》を放っておけば教室のガラスを叩き割って歩いてしまうかもしれないので、ここで解消しておくことにしたわけだよ。なんで俺はこんな言いわけをしているんだろうね。 「む」  と、ハルヒは言った。そして、 「当然よ。あたしが監督するんだからね。成功は約束されているの。あんたに言われるまでもないわよ」  何という単純さ。少しは|殊勝《しゅしょう》な顔でも見せるかと思ったが、ハルヒの意味不明なまでに|爛々《らんらん》と|輝《かがや》く|瞳《ひとみ》は、どこから|充填《じゅうてん》したものか再び自信の|炎《ほのお》が見え|隠《かく》れするようになっていた。簡単すぎる。高レベルの回復|魔法《まほう》を延々自分にかけ続ける中ボス程度の|厄介《やっかい》さだが、俺は気にしない。必要なのはバランスだ。弱々しい|奴《やつ》を|一撃《いちげき》で|葬《ほうむ》り去ってオワリみたいなゲームは……何と言ったっけ、そう、カタルシスとやらがないのさ。意味はよく解らないしそもそも意味なんてないわけで、すなわち俺は、元気のないハルヒなんか不気味なので見たくはないのだ。こいつは常に果てしなく無意味かつ|根拠《こんきょ》なし目的地なしの脳内千メートルダッシュしているくらいがちょうどいい。変に立ち止まると余計にわけわっからんことを無意識にやっちまうみたいだしな。それだけ。  ……と、この時の俺は思っていたらしい。  その日の放課後である。 「もう少し|他《ほか》に言い様はなかったのですか?」と古泉は言い、 「すまん」と俺は答えた。 「元気づけるとしてもですね、もっとこう……当たり|障《さわ》りのないものにして欲しかったんですが」 「……すまん」 「元に|戻《もど》ったと言うより、さらにパワフルになってますよ?」 「…………」 「これでは隠しようがありませんね」  反省しきりの俺に、古泉は|穏《おだ》やかな色を|浮《う》かべた目を向けた。非難しているわけではなさそうだが、その声はどことなく|憂《うれ》いの音階を帯びている。そうだろうな、事態は確実に悪化しているようで、どうもそれは俺のせいらしい。  なんでかって? 知るか。  桜が満開になっていた。ここは川沿いの桜並木通り、朝比奈さんが俺に正体を明かしてくれたあの遊歩道だ。|再確認《さいかくにん》しておこう、今は秋だ。確かにまだ残暑の|名残《なごり》が消え去っていないとはいえ、|普通《ふつう》に考えて日本ではソメイヨシノは春に|咲《さ》くものだ。少々のフライングならば許してやってもいいが、半年ばかり早い。太陽のバカさ加減に桜まで付き合うことはないだろう。  |花吹雪《はなふぶき》が|舞《ま》う中で、ハルヒ一人がエンジン全開だった。キワキワウェイトレス姿の朝比奈さんがよちよちわたわたしているのは、時季外れの花見客がそこら|中《じゅう》にいるせいだな。 「なんて都合がいいのかしら! なんとなく桜の|画《え》が欲しいなあって思っていたのよ。|素晴《はば》らしいタイミングの異常気象ね!」  ハルヒは|口角泡《こうかくあわ》を飛ばし、朝比奈さんに無体なポージングを強制していた。  ダメだね、やっぱり。人間、一時の感情で何かやってしまうとそれは必ず未来の自分に|跳《は》ね返ってくるもので、現に俺はこの半年間ずっと似たようなことばかり反省している気がする。 「あの時ああすればよかった」ではなく「するんじゃなかった」という実に後ろ向きな一人反省大会だ。|誰《だれ》か|銃《じゅう》を貸してくれ。モデルガンじゃないやつを。  桜の木々は昼すぎに|蕾《つぼみ》を|膨《ふく》らませ、夕方には満開になっていたそうだ。秋の|椿事《ちんじ》として、地元のローカル局が|中継《ちゅうけい》にまで来ている。たまにはこんなこともあると思ってもらいたいね。近年の地球規模な異常気象が遠因だ。そういうことにしておけ。な? 「涼宮さんはそう思っているようですね」  少し前まで朝比奈さんと|肩《かた》を並べて|川縁《かわべり》を歩いていた古泉が言う。外面だけはいいこいつとすべてがいい朝比奈さんのツーショットは、世の男性にとっては|苛立《いらだ》たしくなる効果しかないだろうと思えるくらいのハマリ役であって、俺を|不機嫌《ふきげん》にさせた。  長門は花吹雪にさしたる感想もなく、また表情もなく、体内時計の|狂《くる》った桜たちを|漠《ばく》たる目で|眺《なが》めている。黒マントの上にピンクの花びらが数枚くっついて、ほんの少しのアクセントを演出していた。|白鳩《しろばと》のことをこいつは知っているのだろうか。 「そだ! |猫《ねこ》を|捕《つか》まえましょう!」  |突然《とつぜん》、ハルヒが言い出した。 「魔女に使い魔がいるのよ。それは猫が一番しっくりくるわ! どこかに黒い猫落ちてない? 毛並みのいいやつ」  待てよな。長門の初期設定は悪い宇宙人じゃなかったか? 「いいから猫よ! あたしのイメージではそうなってるのよ。猫のいそうな場所ってどこかしらね」 「ペットショップだろうよ」  俺のおざなり返答に、ハルヒは|珍《めずら》しく|妥協《だきょう》するようなことを言った。 「|野良《のら》猫でいいのよ。売り猫や飼い猫は借りたり返したりするの|面倒《めんどう》だしね。どこかの空き地に行けば猫がたまっている場所があるんじゃない? 有希、知らない?」 「知っている」  長門は|僅《わず》かなうなずきを返し、俺たちを約束の地に導く宗教的指導者のような足取りで歩き始めた。長門に知らないことなんかないんだろう。五年くらい前に俺が|失《な》くした小銭入れの|在処《ありか》も|訊《き》いたら教えてくれるかもしれんな。当時の俺の全財産で、五百円くらいは入っていたと思う。  徒歩で十五分ほど移動した後の|到達《とうたつ》地点は、長門が一人暮らしをしている|豪華《ごうか》マンションの裏だった。手入れの行き届いた|芝生《しばふ》が広がり、周囲を植木が|覆《おお》って外からの視線を|遮断《しゃだん》している。そこに何匹もの猫たちが群れていた。野良猫らしいが人慣れしている奴らばかりで、近寄っても逃げようとしない。エサでもくれると思ったのか、足元にまとわりついてくるほどである。そのうちの一匹をハルヒは持ち上げた。 「黒猫いないわねえ。いいわ、この猫で」  三毛猫で、貴重なことにオスだった。しかしハルヒはそれがどのくらい珍しいのか知らないようで、|無作為《むさくい》|抽出《ちゅうしゅつ》の結果に|驚《おどろ》くこともなく、 「さあ、有希。これがあなたの相棒よ。仲良くしなさいね」  ハルヒの|抱《だ》き上げた三毛猫を長門は黙って受け取った。路上でティッシュを|渡《わた》されたような無感動ぶりで、猫のほうも無感動に渡されている。  すぐさまこの場で|撮影《さつえい》が再開された。マンションの裏側だ。もう場所なんかどこでもいいらしい。俺のビデオカメラに|詰《つ》まっているのは、ブツ切れの思いつきカットばかりとなっている。これを編集してまともな一本の話にするのは、さて俺の仕事なんじゃないだろうな。 「有希、みくるちゃんに|攻撃《こうげき》よ!」  ハルヒの指令に、長門は変な姿勢のままうなずいた。猫を|左肩《ひだりかた》に乗せている黒い|衣装《いしょう》の|魔法使《まほうつか》いである。どう見ても猫のほうが重量オーバーだった。三毛猫がおとなしく長門にしがみついているのはいいが、長門は首だけでなく|身体《からだ》全体を|傾《かたむ》けて猫が落ちないようにバランスを取っていた。その不自然な体勢を保ちつつ、朝比奈さんに棒を|振《ふ》る。 「くらうがいい」  多分このシーンでは長門の棒から不可思議な光線が出ていることになっているのだろう。 「……ひー」  と、朝比奈さんは|悶《もだ》える演技。 「はいカット!」  満足そうにハルヒは|叫《さけ》び、俺は録画停止。古泉はレフ板を降ろす。 「その猫、|喋《しゃべ》ることにするわ。魔法使いの飼い猫だもの、皮肉の一つくらいは言うわよね!」  とんでもない。 「あなたの名前はシャミセンよ。ほらシャミセン、何か話しなさい!」  話すわけない。と言うか、話さないでくれ。  俺の願いが天に届いたのか、シャミセンなる|不吉《ふきつ》な命名を受けた三毛猫は突然日本語を喋り出すことなく、|尻尾《しっぽ》の|毛繕《けづくろ》いを始めてハルヒの命令をシカトしていた。当たり前のことなのだが、ホッとする。 「順調ね」  今日|撮《と》った映像を|再確認《さいかくにん》しながら、ハルヒは満足げに笑っていた。午前中までの表情が|嘘《うそ》のようだ。切り|替《か》えが早いってのはいいことだよな。それだけは感心してやっていい。 「キョン、その猫の世話はあんたに任せるわ」  ディレクターズチェアを折り|畳《たた》み、無体なことを俺に命じた。 「家に連れ帰って|歓待《かんたい》してあげなさい。これからの撮影に必要だからね、ちゃんと手なずけておくのよ。明日までに芸の一つを仕込んでおいて。そうね、火の輪くぐりとか」  長門の|肩《かた》に乗ってじっとしてるだけでも、猫としては上出来な部類に入るだろう。 「今日はここまでね。明日から|大詰《おおづ》めよ! いよいよクライマックスへ撮影快調、体調は|万全《ばんぜん》だわ! みんなゆっくり休んで明日に備えなさい」  メガホンを振りつつ解散を宣言したハルヒは『ブレードランナー』のエンディングテーマをハミングしながら一人で帰っていった。 「ふー」  ため息でユニゾンを|奏《かな》でる俺と朝比奈さんである。|他《ほか》の二人、古泉はレフ板を|小脇《こわき》に|抱《かか》えて帰り|支度《じたく》を始め、長門はシャミセンに、インクの切れたボールペンを見るような目を落としていた。  俺は|腰《こし》を曲げて三毛猫の頭を|撫《な》でてやる。 「ごくろうだったな。後で|猫缶《ねこかん》を|奢《おご》ってやるよ。それとも|煮干《にぼ》しがいいか?」 「どちらでも構わない」  朗々たるバリトンがそんなセリフを|吐《は》いた。この場にいる|誰《だれ》の声でもない。俺は古泉と朝比奈さんがポカンとしているのを見て、長門の無表情を見た。三人とも、同じ所に視線を向けている。俺の足元に。  そこには三毛猫がいて、丸い黒目で俺を見上げていた。 「おいおい」と俺は言った。「今のは長門か? 俺はお前に訊いたんじゃないぞ。猫に訊いたんだ」 「私もそのつもりだった。|故《ゆえ》に返事をした。私は何か|間違《まちが》ったことを言ったのだろうか」  と、猫が喋った。 「弱りましたね」  これは古泉である。 「びっくりです。猫さんが言葉をしゃべるなんて……」  これは朝比奈さんである。 「…………」  長門は|沈黙《ちんもく》していて、シャミセンを抱えて立っている。そのシャミセンは、 「私にはキミたちがなぜ|驚《おどろ》いているのかが|解《わか》らない」  とか言って、長門の肩にしがみついていた。  化け猫、|猫又《ねこまた》の|類《たぐい》だ。何年生きたらこうなるんだっけ。 「それも私には解らない。私にとって時間の感覚など存在しないに等しい。今がいつなのか、いつが過去なのか、私には興味のないことだ」  猫が喋り出すだけでも相当アレなのに、|微妙《びみょう》に観念的なことをほざいている。肉球付きの分際で生意気な。三味線屋はどこにあるのだろう。タウンページに|載《の》ってるかな? 「確かに私はキミにとってヒトの言葉に聞こえるかのような音を出しているかもしれん。だが、オウムやインコの類でもそれくらいのことはするではないか。何をもって、キミは私が言葉通りの意味をこめた音声を発しているのだと確認するのか」  何言ってんだ、こいつ。 「そりゃあれだ。ちゃんと俺の問いかけに答えているからだ」 「私が発している音声が、たまたま|偶然《ぐうぜん》にもキミの質問に対する応答に|合致《がっち》しているだけかもしれないではないか」 「そんなのがまかり通れば、人間同士でも会話が成立していない場合があることになるじゃねえか」  俺はなんで猫相手にこんな|真面目《まじめ》なことを言ってるのかね? 三毛|野良《のら》シャミセンはぺろりと|前脚《まえあし》を|舐《な》め、耳の下を|掻《か》く。 「まったくその通りだ。キミとそちらのお|嬢《じょう》さんかあたかも会話しているかのような|行為《こうい》を働いてたとして、それが正しい意思伝達をおこなっているかどうかなど、誰にも解らないのだ」  やたら|渋《しぶ》い声で言うシャミセンだった。 「誰しも本音と立て前を使い分けていますからね」と古泉。  お前は|黙《だま》ってろ。 「言われてみればそうです……よね」と朝比奈さん。  すみませんが、あなたも黙っていてくださいませんか。  |芝生《しばふ》に転がっていた猫どもを一|匹《ぴき》一匹取り調べてみた。シャミセン以外の猫たちは「みい」や「にゃあ」や「うー」くらいしか話さないことが判明し、どうやらこのオス三毛猫のみがなぜか|唐突《とうとつ》にヒト言語発生能力を|獲得《かくとく》したらしいのである。なぜか?  あのバカのせいだ。 「|現況《げんきょう》は、あまりよろしくないようですね」  |優雅《ゆうが》にマグカップを口元に運びながら古泉が口火を切った。 「僕たちはまだまだ涼宮さんを過小評価していたようです」 「どういうことですか?」と朝比奈さんが|忍《しの》び声。 「涼宮さんの映画内設定が世界の常識として固定される|恐《おそ》れが出てきたのですよ。彼女が思い|描《えが》く映画の内容が現実化し、そのままそれが|普通《ふつう》の情景になってしまうのです。朝比奈さんがレーザーを出したり猫が|喋《しゃべ》り出したりね。もし彼女が『|巨大隕石《きょだいいんせき》が落下してくるシーンを|撮《と》りたい』と思えば、本当に実現するかもしれません」  現在、ハルヒを除くSOS団の四人が集合しているのは駅前の|喫茶店《きっさてん》である。対ハルヒ対策の|緊急《きんきゅう》合同対策本部の設置を提唱した古泉に、全員が賛成した。どうやら|真剣《しんけん》に、ことは風雲急を告げる具合になっているようだった。見た目は高校生数人の|他愛《たわい》のない|談笑《だんしょう》で(笑っているのは古泉だけだったが)、やってることは|特撮《とくさつ》ヒーローものの悪役幹部が正義側の必殺|技《わざ》を|封《ふう》じるための相談をしているような|胡散臭《うさんくさ》さ|溢《あふ》れる会合なのだが。ちなみにシャミセンは、店の外の植え込みで待っているように、それから決して他人に話しかけたり応じたりしないよう申しつけてやった。特に不満の色もなく、「よかろう」と|応《こた》えた猫は|素直《すなお》に道ばたの常緑樹の|木陰《こかげ》に身を|隠《かく》すようにうずくまり、我々を見送った。 「どうなるんでしょうか……」  |一際《ひときわ》深刻なのは朝比奈さんだった。気の毒なことに相当ヨレている。ハルヒ映画のおかげで一番神経を|病《や》んでいるのは彼女だな。長門はデフォルトの無表情を|崩《くず》さない。|恰好《かっこう》も黒ずくめのままである。  古泉がホットオーレを|啜《すす》り込みながら言っている。 「一つ解っているのは、このまま涼宮さんを|放《ほう》っておくわけにはいかないということです」 「そんなもんはお前に言われるまでもねーよ」  俺はお冷やを一気飲みした。注文したアップルティーはすでに飲み干している。 「だから、どうやってハルヒを止めるのかを問題にしてるんじゃないか」 「どうやってと言いましても、|今頃《いまごろ》になって映画|撮影《さつえい》を中止させることが|誰《だれ》に可能でしょうか。少なくとも、僕には自信がありません」  もちろん俺にもない。  いったんエンジンがかかったが最後、ハルヒはスイッチを切らない限りどこまでも走っていってしまうのである。泳ぎを止めると死ぬ魚の一種なのかもな。系図を|辿《たど》っていけばあいつの祖先にマグロかカツオがいるに|違《ちが》いない。  長門は何も考えていないような顔でシナモンティーを|黙々《もくもく》と飲んでいる。本当に何も考えていないのかもしれないが、すべてを|解《わか》っているから考える必要もないのかもしれないし、ただの|極端《きょくたん》な口ベたなのかもしれない。こいつばっかりは半年|経《た》っても考えてることがさっぱり解らない。 「長門、お前はどう思うんだ。何か意見はないのか?」 「…………」  音を立てずに受け皿へとカップを|戻《もど》した長門は、なめらかな動きで俺を見た。 「前回と違って涼宮ハルヒはこの世界から消えていない」  フリーズドライしたような声だった。 「それだけで|充分《じゅうぶん》だと情報統合思念体は判断している」  古泉が優雅に額を押さえた。 「しかし僕たちは困るのですが」 「我々は困らない。むしろ観測対象に変化が発生したのは|歓迎《かんげい》すべきこと」 「そうですか」  あっさり長門に見切りをつけて、古泉は再び俺に顔を向けた。 「では涼宮さんの映画がどのようなジャンルのものになるのか、それを決定づける必要がありますね」  さあ、またこいつはわけの解らないことを言い出すつもりだぞ。 「物語の構造は大まかに分けて三つに分類することが出来まず。物語世界の|枠組《わくぐ》みの中で進むか、枠組みを|破壊《はかい》して新たな枠組みを作り上げるか、破壊した枠組みをまた元通りに直してしまうか」  やっぱり演説を始めやがった。はあ? 何言ってるのこの人? みたいなもんだ。朝比奈さんも、そんな|真面目《まじめ》な顔で|聴《き》くもんじゃないですよ。 「ところで我々は枠組みの中にいるのですから、この世界を知るには論理的思考を働かせて推測するか、観測によって知覚しなければなりません」  枠組みってな、何のことだ。 「たとえば我々のこの『現実』を考えてみましょう。僕たちがこうして生活している世界のことです。対して、涼宮さんの撮っている映画は我々にとってフィクションです」  当たり前だろ。 「我々が問題視しているのは、そのフィクション内での出来事が『現実』に|影響《えいきょう》を|及《およ》ぼしているからです」  ミラクルミクルアイ、|鳩《はと》、桜、|猫《ねこ》。 「|虚構《きょこう》による現実への|侵食《しんしょく》を防がねばなりません」  なんだか古泉はこういうことを話す時には元気になるみたいだな。やけに晴れやかな顔をしている。|反抗《はんこう》して俺は|曇《くも》った表情を|浮《う》かべることにする。 「涼宮さんの異能力が映画作りというフィルターを通して|顕在《けんざい》化しているわけです。これを防ぐ手段は、『フィクションはあくまでフィクションに過ぎない』、ということを涼宮さんに解らせることなのです。今の彼女は、この|垣根《かきね》を無意識のうちに|曖昧《あいまい》化させていますから」  よほど調子に乗っているんだな。 「フィクションでの出来事が事実ではないということを論理的手続きによって証明することが必要です。我々はこの映画を合理的に落ち着くよう|誘導《ゆうどう》しなければなりません」 「猫が|喋《しゃべ》るのをどう正当化すればいいんだよ?」 「正当化というのは違いますね。それでは結局、猫が喋り出す世界が構築されることになってしまいます。我々の『現実』では猫は喋りません。喋る猫のどこかに何らかの間違いかあったことにしなければマズいのです。なぜなら猫の喋る世界は、我々の世界にはあり得ないものの一つなのですから」 「宇宙人と未来人とESPはあり得てもいいのか?」 「ええ、もちろん。だって現に存在していましたからね。我々の世界ではそれが|普通《ふつう》です。ただし涼宮さんには知られてはいけない、という条件付きの」  そうなのか? 「もし我々の世界をどこか遠くから|眺《なが》めている存在がいたとしましょう。その彼ないし彼女にとっての『現実』世界が、以前のあなたのように|超常《ちょうじょう》的な超自然現象のない世界——宇宙人も未来人も超能力者もいない世界です——だとしたら、この我々の『現実』はまさにフィクショナルな世界に見えることでしょうね」  それがお前の言う神様の正体か。 「でもそれはあくまで外側から見た場合でのことです。あなたはすでにこの世界に超自然的存在——つまり僕とか長門さんです——が、ちゃんといることを知ってしまっている。その世界で生きている以上、あなたもまた枠組みの中で現実を|認識《にんしき》するしかないのです。あなたの現実認識は、一年前と今ではすでに|違《ちが》うものになっているはずですよ」  知らないままのほうがよかったかもしれないな。 「それはどうでしょうね。まあ、一つ言えることがあります。涼宮さんは以前のあなたと同じ状態です。つまりまだ現実認識が変化するまでにいたっていない。口では色々なことを言いつつも、心の奥底では超自然的存在を信じていないわけです。彼女が見たものと言えば|閉鎖《へいさ》空間と〈神人〉ですが、涼宮さんはあの時のことを夢だと思っている。夢は虚構です。なので、この『現実』はまだ我々にとっての現実として形を|留《とど》めているというわけですよ」  するってーと。 「ええ、ですからこのまま虚構が現実化していき、涼宮さんがそれらを『現実』だと認識すれば、まさに喋る猫の存在は『現実』の一つとして取り込まれます。猫が喋るなんておかしなことですから、喋る猫の存在を現実化するには世界そのものの再構築が必要です。猫が喋ってもおかしくない世界を、涼宮さんは作り上げようとするでしょう。おそらくSF的な世界観にはなりませんね。彼女の思考パターンから言って、そんな|面倒《めんどう》なことをするとは思えません。世界は一気にファンタジーの論理が支配するものになるでしょう。猫が喋ることに何の|理屈《りくつ》もいらないわけです。喋る猫がいる、というただその事実のみで|充分《じゅうぶん》なのですよ。なぜ猫が喋るのかというエクスキューズは|皆無《かいむ》です。なぜなら猫とはもともと喋る動物だったことになるのですからね」  古泉はマグカップを置いて、|陶器《とうき》の|縁《ふち》を指でなぞる。 「それでは困るわけです。今まで世界を構築していた|概念《がいねん》がひっくりかえるからですよ。僕は人類の観測結果と思考実験をそれなりに尊重しています。その上で、何もしてないのに自然に喋りだす猫というものは観測もされていなければ予想もされていません。我々のこの世界にいてはおかしい存在なのです」  お前たちはどうなるんだよ。超能力者だって似たようなものだろう。 「ええ、ですから我々もまた、世界にとっては|既定《きてい》の法則を|揺《ゆ》るがす異物です。我々が存在するのは涼宮さんのおかげでしょうね。ということは、この喋る猫もそうでしょう。彼女が映画に登場させようと考えた、まさにその存在です。どうやらですね、涼宮さんが作ろうとしている映画の内容と、この現実世界がリンクしようとしているようだ、ということが|解《わか》るのですよ」  解ったところでなあ。なんとかならないのか。 「それにはまず、映画のジャンルを決定する必要があるのです」  いい加減にしろと言いたいね。独りよがりな熱弁を|振《ふ》るうのは、そりゃ本人は楽しいかもしれないが少しは聞いている身にもなれ。全校朝礼の校長訓辞に|匹敵《ひってき》するウザさだぜ。見ろ、朝比奈さんもさっきから変に暗い顔になってるじゃないか。  しかし古泉はまだ|喋《しやべ》り足りないようで、 「もしこれがファンタジー世界での出来事なら、猫が喋ったり朝比奈さんが目からビームを出したりなどの現象には何の説明もいりません。その世界は、『もともとそういうふうになっている世界』だからです」  俺は窓の外へ視線を移動し、シャミセンがまだそこにいることを確かめた。 「ですが、喋る猫やミクルビームが存在することに何らかの理由があれば、その時点で別の世界が見えてきます。我々が知らなかっただけで猫が喋ったり朝比奈さんがビームを出したりする現実は確かにあったのだ、ということになるのです。観測によって存在証明ができたわけです。しかしその|瞬間《しゅんかん》、我々の世界は変容します。超常現象がない世界から超常現象を内包した世界を認識し直さなければならないのです。我々の知っていた現実世界は、実は|偽《いつわ》りのものだったことになるのですから」  俺はため息をついた。どうやってもこいつは語りを|止《や》めないらしいな。  つまり猫が喋るには喋るだけの理屈がいると、そう言いたいのか。でもそれならお前や長門や朝比奈さんはどうなるんだ。お前と彼女たちだって充分に超自然現象に分類されるんじゃないのか? 「あなたにとってはそうでしょう。自明の理のはずです。あなたにとって世界はすでに変容しています。高校に入学したばかりのあなたと現在のあなたでは、|認識《にんしき》している世界はとっくに別物なのではないですか? あなたの現実認識は、もはや以前のモノとは違っています。そしてあなたは新しい現実を認識しているんじゃないんですか? 我々のような存在が確かにいることを、あなたはもう解っているでしょう」 「俺に何を解れと?」 「映画の話に|戻《もど》りますが、今のところ涼宮さんが作ろうとしているのは、おそらくファンタジーに分類されるもののようです。この映画の中では、|猫《ねこ》が喋るのも朝比奈さんや長門さんが|魔法《まほう》じみたカを使うのも何の理由もいりません。ただそうなっている、それで充分なのです」  じゃあ、化け猫や未来人ウェイトレスや悪い魔法使いに存在意義を|与《あた》えてやればいいのか。 「ところがそうもいかないのですよ。それどころか、存在意義など与えてしまってはそっちのほうか困るんです。観測者が物語のスタート時と結末時で『物語内の世界が変化』したことを確認してしまえば、まさに存在を認めることになりますからね。喋る猫が存在してもいい、というふうに世界のほうを変えてしまうのですよ。僕はこれ以上世界がややこしくなるのはあんまり|歓迎《かんげい》しませんね」  俺だって歓迎しない。長門サイドくらいだろうな、困らないのは。 「先ほど僕はジャンルを決定する必要があると言いましたが、ここでとあるジャンルに登場願えればいいのです。そのジャンルは、すべての|謎《なぞ》や|超《ちょう》自然現象を解体し、合理的なオチをつけることによって、|歪《ゆが》みかけた世界を元通りの世界に引き戻す性質を持っています。物語のスタート時にあった世界が結末時において復活し、謎のような現象はすべて合理的に解消する働きを持つ|唯一《ゆいいつ》のジャンルがあるのですよ」  何だ。 「ミステリですよ。特に本格ミステリと呼ばれるものの一部です。このジャンルの方法論を使えば、あたかも信じがたいように思えた現象はその通り、ただ『信じがたいように思えた』というだけで、なにもわざわざ超自然現象を持ち出さなくともよいことになります。喋る猫も朝比奈必殺ビームも、何かのトリックであったということにしてしまえばいいわけですから。我々の現実は変容することはないでしょう」  |喫茶店《きっさてん》のウェイトレスが、朝比奈さんを意識して無視するような感じで全員のカップを下げに来た。その姿が去るのを待って、古泉は、 「人語を話す猫がいるというのは明らかにこの世界の常識ではありません。にもかかわらず、ここに喋る猫は存在します。存在するはずのないモノが存在するわけです。これは我々の世界にとって非常に不都合なことです」  水の入ったグラスに付着した|水滴《すいてき》を指で|弾《はじ》きながら、 「事態を解決するには、この映画に合理的なオチをつけなければなりません。猫が喋ったり、未来人がいたり、魔法使いの宇宙人がいることに対する、論理的に|万民《ばんみん》が——というより涼宮さんが——|納得《なっとく》する結末です」 「あるか? そんなの」 「ありますよ。ごくごく簡単で、それまでの|理屈《りくつ》に合わない展開を一気に常識的なものへ転化する結末がね」  言ってみろ。 「夢オチです」 「…………」  |沈黙《ちんもく》が|訪《おとず》れた。全員の間に平等に。やがて古泉は言った。 「|冗談《じょうだん》を言ったつもりはなかったのですが……」  |前髪《まえがみ》をつまんで指に|絡《から》めている|優男《やさおとこ》に、俺は|侮蔑《ぶぺつ》を|込《こ》めた視線を|突《つ》き|刺《さ》した。 「ハルヒがそれで納得すると思うか? あいつは|嘘《うそ》か誠かは別として、けっこう本気で何らかの賞を|狙《ねら》っているらしいそ。それが夢オチだ? いくらあいつがアホでも、そこまで突き|抜《ぬ》けたアホな映画にはしないと思うぜ」 「彼女がどう思うかではなく、我々の都合に合わせたオチを考えた結果です。映画の内容がすべて夢、嘘、|間違《まちが》いだったということを作品内で自己|言及《げんきゅう》するのが、一番よい解決法なのですよ」  お前にとってはそうだろう。俺にとってもそのほうがいいのかもしれない。しかしハルヒはどうだろう。ひょっとしたらあいつの頭の中には、|途方《とほう》もなく自画自賛すべきラストシーンが出来上がっているのかもしれんぞ。  それに俺はもう夢がどうしたとかいうような話には二度と|触《ふ》れたくないのだ。ついでにお前のクソ|面白《おもしろ》くもない独断的事情説明にもな。  自宅への帰り道にホームセンターに寄った。一番安い猫用トイレ一式と特売の|猫缶《ねこかん》を|購入《こうにゅう》し、一応領収書も|貰《もら》って外に出る。シャミセンは|前脚《まえあし》で顔を洗いながら待っていた。俺は歩き出し、猫もついてくる。 「いいか、家では一言も|喋《しゃべ》るな。ちゃんと猫らしくしていろ」 「猫らしく、という言葉の意味は|解《わか》らないが、キミがそのように言うのなら従おう」 「喋るな。返事は、にゃあ、で統一しろ」 「にゃあ」  連れて帰った|野良《のら》猫を見て妹と母親は目を丸くした。俺は考えておいた嘘話、「こいつの飼い主である知人がしばらく旅行にいくことになったので一週間ほど預かることになった」と説明し、|快諾《かいだく》を得た。特に妹は喜び勇み、シャミセンの|身体中《からだじゅう》をぺたぺた|触《さわ》っている。化け猫のほうはおとなしく「にゃあ」と鳴くのみだった。それはそれであまり猫らしくないかな。  無事に夜が明けた。今日も俺は学校に行かねばならない。置いていくのも心配なのでシャミセンも連れて行く。スポーツバッグの中に入るよう|促《うなが》した俺に、シャミセンは「まあ、よいだろう」と|偉《えら》そうに言って納まった。校門の近くで出してやることにしよう。  文化祭まで残り数日となった我が校だが、まるでハルヒのテンションに連動するかのように、雑然たる|雰囲気《ふんいき》を着実に増大させていた。昨日までの無気力ぶりはなんだったのかと思えるくらいである。  朝っぱらからあちこちで鳴り物やら歌声やらが聞こえるし、看板や立て札みたいなものを作っている運中もそこら中にいるし、何をするつもりか不可解な|衣装《いしょう》を着た一団もウロウロしている。このぶんでは異世界人の一人二人が混じっていたとしても不思議ではなくなってきた感じだ。やる気ゼロなのは一年五組だけだったのだろうか。このクラスのやる気の全部をハルヒが吸い取りでもしているのかもしれないな。  俺が教室に入ると、すでにハルヒは着席しておりノートにわしわし書き|殴《なぐ》りをおこなっていた。 「ようやく|脚本《きゃくほん》を書く気になったのか?」  自分の席に着きながら|尋《たず》ねる。ハルヒはふふんと鼻を鳴らしてくいっと|顎《あご》を上げた。 「違うわよ。これは映画のキャッチコピー」 「見せてみろ」  ノートを取り上げて目を走らせる。 『朝比奈みくるの秘蔵丸秘|極秘《ごくひ》映像|満載《まんさい》! 見ないと絶対|後悔《こうかい》後の祭り! SOS団プレゼンツでお送りする今年最大の話題作! |雲霞《うんか》のごとく押し寄せよ!』  いたずらに|扇情《せんじょう》的なだけだとか今年はあと二ヶ月くらいしか残っていないとかいうツッコミは|封印《ふういん》してやってもいいが、これでは朝比奈さんが出ているということしか解らない。このコピーを読んでどんな映画なのか想像できる人間がいたら、俺は違った意味で尊敬する。まあ|撮影《さつえい》している俺にだってまだどんな映画か解らないんだし文句のつけようもない。ハルヒにも解ってないんじゃないか? それにしてもよく辞書なしで雲霞って書けたな。 「チラシを刷って当日に校門前で|撒《ま》くわけよ。うん、効果バツグン! 文化祭くらいバニーの|恰好《かっこう》してても岡部も何も言わないわよね!?」  いや、言うと思うが。ここはお|堅《かた》い県立高校なんでな。担任の胃を痛めるようなことはやめてやれ。 「それに朝比奈さんは|模擬《もぎ》店で|忙《いそが》しいだろう。古泉と長門も自分たちのクラスでも何かやるんだろ、当日にヒマなのはお前と俺くらいだ」  ハルヒは|胡乱《うろん》な目つきで俺を見た。 「あんたがバニーをするって言うの?」  なんでそうなる。お前が一人でやればいいだろ。俺ならその後ろでプラカード持って立っていてやるさ。 「ところで知ってるか? 文化祭までもうそんなに日がないぞ。今週末の土曜と日曜が文化祭の当日だ」 「知ってるわよ」 「そうかい。のんびりしてるもんだから日付を|勘違《かんちが》いしてんじゃねえかと思ってたよ」 「のんびりなんかしてないでしょ。今もほら、|煽《あお》り文句を考えてたんだし」 「宣伝のことを考えるより、先にやることがあるだろうが。映画はいつ完成するんだ?」 「もうすぐよ。後は足りないシーンを|撮《と》り足して、編集して、アフレコと音楽とVFXを入れたら出来上がりよ」  そりゃ|驚《おどろ》きだ。カメラマン的立場から言わせてもらえば、足りないシーンのほうが多いような印象を持っているのだが、いったい|監督《かんとく》はどんな映画にすることを考えているのだろう。おまけに|撮影《さつえい》終了《しゅうりょう》後の作業に今までの倍くらい時間がかかりそうなのも、単なる俺の気のせいだといいんだが。  三限と四限の間の休み時間だった。 「キョンくんっ!」  教室にいたクラスメイトたちが残らず|腰《こし》を|浮《う》かせるくらいにバカでかい声が|響《ひび》き|渡《わた》り、俺が反射的にそちらを見ると、鶴屋さんが戸ロから顔を覗かせていた。その肩の横に朝比奈さんの|柔《やわ》らかな|髪《かみ》が見え|隠《かく》れしている。 「ちょっとこっち来てっ」  鶴屋さんの|笑顔《えがお》に引かれるように、俺はすっ飛んで行った。ハルヒは休み時間になるとどこかに消える習慣を|維持《いじ》しているので教室にはいない。たぶん、校舎のどこかをほっつき歩いてるんだろう。好都合だ。  |廊下《ろうか》に出た俺の|袖《そで》を鶴屋さんは引っ張って、 「みくるが話があるって!」  反対側の校舎まで聞こえそうな声でそう|叫《さけ》び、朝比奈さんの背中をばしんと叩いた。 「ほら、みくる、キョンくんにアレを!」  おずおずとした手つきで、朝比奈さんは俺にぴらぴらの紙切れを差し出した。 「これ……。そのう、わわ、割引券です」 「あたしたちのクラスでやる焼きそば|喫茶《きっさ》のやつだよっ」と、鶴屋さんが追加説明。  有り|難《がた》く受け取ることにする。クーポン券みたいなものらしい。|落款《らっかん》を押された印刷文字を読む限りでは、これを持って行くと焼きそばが三割引になるそうだ。 「お友達とお|誘《さそ》い合わせの上でお|越《こ》しください」  ぺこりと頭を下げる朝比奈さんと、マンガのキャラみたいな口で笑っている鶴屋さんだった。 「それだけ! じゃあね!」  さばさばと鶴屋さんは立ち去ろうとして、朝比奈さんもそれに従いかけ、しかしすぐに一人で俺の|許《もと》へと|駆《か》け|戻《もど》った。鶴屋さんはそれを見ながらケロケロ笑い、立ち止まって待ちの姿勢。  朝比奈さんは両手の指先を合わせて俺をちらちらと|眺《なが》めていたが、 「……キョンくん」 「なんでしょうか」 「古泉くんの言うこと、その、あまり信用しないほうが……。こんなこと言うと、あたしが古泉くんをアレかと思われるようで……その、イヤなんですけど……でも」 「ハルヒが神様だとか、そういう話ですか?」  なら、そんなこと信じちゃいませんよ。 「あたしは、そのう……。別の考えを持っていて、つまりその、それは……古泉くんの|解釈《かいしゃく》とは違うものなんです」  朝比奈さんはふひゅうと息を|吐《は》き、俺を上目で見つめる。 「涼宮さんに、この『現在』を変えるカがあるのは間違いないです。でも、それが世界の仕組みを変えるものだとは思いません。この世界は、最初からこうだったの。涼宮さんが作り出したんじゃないんです」  それはそれは……。古泉とは真っ向から反発する意見ですね。 「長門さんも違うことを考えていると思う」  朝比奈さんは制服の前で指を|絡《から》ませながら、 「あの……。こんなこと言うとちょっと人聞きが悪いかもしれないんですけど……」  |離《はな》れた場所で鶴屋さんがニヤニヤ笑いながら俺たちを眺めている。|雛《ひな》に巣立ちを|促《うなが》すツバメの親みたいな顔だった。何か誤解しているんじゃないだろうか。  言葉を|紡《つむ》ぐ朝比奈さんの口調は|朴訥《ぼくとつ》としている。 「古泉くんの言っていることと、あたしたちが考えていることは違うものなの。古泉くんのことを、そのぅ……あんまり信用しないで……と言ったら|語弊《ごへい》があるけど、ええと」  |慌《あわ》てたように手を|振《ふ》って、 「ごめんなさい。あたし説明ヘタだし制限かかってるし……。あの、」  うつむいたり、俺を見たりしていたが、 「古泉くんにはあっちの都合と理論があるし、あたしたちにもそう。たぶん、長門さんも。だから」  朝比奈さんは、|身体中《からだじゅう》の気力を総動員したような決意に満ちた顔で俺を見つめた。|真面目《まじめ》な顔も|可愛《かわい》らしい。このお顔を至近で拝見できる感激に|震《ふる》えつつ、自信を持って俺は答えた。 「|解《わか》ってますよ。ハルヒが神様なわけないじゃないですか」  あんな|奴《やつ》に|賽銭《さいせん》を投げるくらいなら、朝比奈さんを教祖にして宗教法人を立ち上げたほうが信者の集まりもいいというものだ。実印と|太鼓判《たいこばん》を両方押してもいい。 「俺にはまだ古泉より朝比奈さんの意見のほうが解りやすいですよ」  ちょっとだけ、朝比奈さんは|微笑《ほほえ》んだ。もしスイートピーが笑うのだったら、こんな感じになると思うね。 「うん。ありがと。でも、あたし自身には古泉くんに|含《ふく》むところはありません。それも解っておいてくださいね」  |微妙《びみょう》なことを言って俺を|上目遣《うわめづか》いで見上げると、|逃《に》げるようにさっと身体を|翻《ひるがえ》した。いや別に|抱《だ》きつくつもりはなかったですが。  朝比奈さんは、小さく手を振ってから、親鳥の後ろをつけるカルガモの雛みたいに鶴屋さんの後を追いかけて行った。  少しでも作業を進めておいたほうがいいだろう。そう思い、同時に何で俺こんな|殊勝《しゅしょう》なことを思ってんだとも思いつつ、パソコンをいじるために|訪《おとず》れた部室には先客がいてトンガリハットに暗幕マントのまま本を読んでいた。  俺が何も言わないうちに、 「朝比奈みくるの主張はこうだと思われる」  俺の心を読んだように長門はそう前置きし、 「涼宮ハルヒは造物主ではない。彼女が世界を創造したのではない。世界はこのままの形で以前から存在していた。|超能力《ちょうのうりょく》や時間異動体、|概念《がいねん》形地球外生命体などの超自然的存在は涼宮ハルヒが願望によって生まれたのではなく、元々そこにいたのである。涼宮ハルヒの役割は、それらを自覚無しに発見することであり、その能力は三年前から発揮されている。ただし彼女の発見は自己|認識《にんしき》に|到達《とうたつ》しない。彼女は世界の異常を探知できるが決して認識することはない。認識を|妨害《ぼうがい》する要素もまた、ここに存在するからである」  決して笑わない|唇《くちびる》が|淡々《たんたん》と言葉を紡ぐ。長門は俺の目をじっと|覗《のぞ》き込むように、最後にこう言って口を|閉《と》ざした。 「それが、我々」 「朝比奈さんには古泉と|違《ちが》う理由があって、ハルヒが不思議現象を見つけることが不都合なのか」 「そう」  長門はまた開いた本に目を向ける。俺との会話などどうでもよさそうな態度だった。 「彼女は彼女が帰属する未来時空間を守るためにこの時空に来ている」  何だか、重大なことをサラリと言われたような気がする。 「涼宮ハルヒは朝比奈みくるの時空間にとって変数であり、未来の固定のためには正しい数値を入力する必要がある。朝比奈みくるの役割はその数値の調整」  紙の|擦《こす》れる音も立てず、長門はページを|繰《く》っている。|硬質《こうしつ》な黒い目を|瞬《まばた》きもさせずに、 「古泉一樹と朝比奈みくるが涼宮ハルヒに求める役割は別。彼らは|互《たが》いに相手の|解釈《かいしゃく》を決して認めることはない。彼らにとって異なる互いの理論は自分たちの存在|基盤《きばん》を|揺《ゆ》るがすものにほかならない」  待てよ。古泉は三年前に超能力が自分に宿ったのだと言ったぞ。  俺の疑問に長門は|即答《そくとう》、 「古泉一樹の言葉が真実であるという保証はどこにもない」  俺は例のハンサム|笑顔《えがお》を|脳裏《のうり》に|描《えが》いた。確かに保証はない。古泉の|理屈《りくつ》は俺が|被《こうむ》った出来事にもっともらしい解説を付けているだけだ。それが正解だと|誰《だれ》に解る? 事実、朝比奈さんは信じるなと言った。しかし朝比奈さんの理屈だって同じことだ。朝比奈版解答が正しいのだと、誰が保証してくれるのだろう。  長門を見る。古泉の言うことは|嘘《うそ》っぱちかもしれない。朝比奈さんは自分の意見が嘘だと気付いていないのかもしれない。だが、この冷静な宇宙人だけは嘘を言いそうにない。 「お前はどう思っているんだ。どれが正解だ。前にお前が言ってた、自律進化の可能性ってのは結局何なんだ」  黒衣の読書好きは|底抜《そこぬ》けに無感情だった。 「わたしがどんな真実を告げようと、あなたは確証を得ることができない」 「なぜだ」  しかしその時。俺は|滅多《めった》に見られないものを見た。長門は、迷うような表情をしたのだ。俺が少々|愕然《がくぜん》としていると、 「わたしの言葉が真実であるという保証も、どこにもないから」  最後に長門はこう告げて本を置き、部室から立ち去った。 「あなたにとっては」  |予鈴《よれい》が鳴り出した。  わからん。  |普通《ふつう》、|解《わか》るか?  古泉も長門も、もっと他人に解りやすく話してくれよ。わざと難しく言ってるんじゃないかと思うね。少しは簡単にまとめる努力を|払《はら》うべきだ。でないと、そんなもの耳を|素通《すどお》りするだけだからな。誰も聞いちゃくれねえぜ。  |腕組《うでぐ》みしながら歩いている俺を、|無国籍《むこくせき》中世風な|恰好《かっこう》をした一団が追い|抜《ぬ》いて|廊下《ろうか》の角を曲がった。長門があの黒い|衣装《いしょう》で混じっていても|違和《いわ》感ないような連中だった。どこのクラスかクラブかが、ハルヒに負けじとファンタジー映画でも|撮《と》ってるのかもな。いいよな、そいつらは。おそらく俺のような|悩《なや》みを持つことなく、楽しく|撮影《さつえい》をおこなっていることだろう。もっとまともな|監督《かんとく》が常識的な指揮を|執《と》っているんだろうしさ。  俺はため息つきつき、一年五組の教室へと|帰還《きかん》した。  映画撮影が順調だと考えているのはハルヒだけで、俺と古泉と朝比奈さんは|次第《しだい》に顔にかかる縦線が|影《かげ》を|濃《こ》くするようになっていた。  撮影が進むにつれ様々なことが発生しているようだった。いつの間にかモデルガンからはBB|弾《だん》ではなく|水撃《すいげき》弾が出るようになっていたし、朝比奈さんはハルヒが違う色のコンタクトを持ってくるたびに|物騒《ぶっそう》なものを出し(金色がライフルダートで緑色がマイクロブラックホールだった)その都度長門に|噛《か》まれていたし、桜は|咲《さ》いたと思ったら次の日には散っていたし、神社の白い|鳩《はと》たちは数日後にはとっくに|絶滅《ぜつめつ》したはずのリョコウバトになっていたらしいし(古泉がこっそり教えてくれた)、地球の|歳差《さいさ》運動が|微妙《びみょう》にズレたりしてたそうだ(長門・談)。  日常はどんどんおかしくなっているようである。  |疲《つか》れた|身体《からだ》を引きずって自宅に帰ると、今度はヒゲの生えた動物が口を開きやがるしさ。 「あの元気な少女の前で口を閉じておけばよいのだろう」  |三毛猫《みけねこ》はスフィンクスみたいな姿勢で俺のベッドの上に|寝《ね》そべっていた。 「よく解ってくれてるじゃないか」俺はシャミセンの長い|尻尾《しっぽ》を軽くつかんだ。猫はするりと俺の手から|尾《お》を|逃《に》がし、 「キミたちがそうして欲しそうにしていたのでな。私自身、あの少女に私の話し声を聞かれるのは|何故《なぜ》か不都合なことになりそうな予感がある」 「古泉によるとそうらしいな」  猫が|喋《しゃべ》る。ということは猫が喋っても不思議ではない理屈が必要である。簡単に言えば、喋る猫が存在しても何ら不思議でない世界を構築すればいいらしい。そりゃいったいどんな世界のどんな猫なんだ?  シャミセンはぱかりとあくびをして尻尾の|毛繕《けづくろ》い。 「猫にも色々いるのだ。ヒトもそうであろう」  その「色々」の部分をもっと|詳《くわ》しく知りたいもんだ。 「知ってどうすると言うのか。キミが猫に成り代わることができるとも思えない。猫の心理を体得することもまた|然《しか》りであろう」  うんざりだ。どいつもこいつも。  そろそろ|風呂《ふろ》にでも入ろうかと考えていたら妹が俺の部屋を|訪《おとず》れ、来客を告げた。  |誰《だれ》かと思いつつ階下へと。ついに自宅までやって来たのは古泉だった。俺は家の外に出て、夜道にて応対してやる。部屋に入れて終わらない長話をされても困るし、シャミセンとダブルで意味不明な|抽象《ちゅうしょう》論を聞かされるのも|御免《ごめん》被りたい。  思った通り、古泉は一人で|理屈《りくつ》っぽいことを延々話して、あげくにこんなことまで言い出した。 「涼宮さんにとって細かい設定や|伏線《ふくせん》はどうでもいいんですよ。こっちのほうが|面白《おもしろ》いような気がする、で|充分《じゅうぶん》なわけです。そこには合理的な解決も、綿密な構成も、手がかりになるような伏線もありません。かなり|刹那《せつな》的に物語を作っていると言えるでしょう。オチなんか考えていないのです。ひょっとしたら未完で終わるかもしれませんね」  それだと困るんだろうが。お前の言い分では、|放《ほう》り投げっぱなしで終わるとこのぐちゃぐちゃになりかけている現実がそのまま現実として固定されてしまうんだろ。ハルヒの中でちゃんと結末を|迎《むか》えなければならず、なおかつ現実に|即《そく》したオチでなければならない。そして、それを俺たちが考えないといけないわけである。ハルヒは考えなしだし、それにあいつの考えることは常態的に|滅裂《めつれつ》だ。ならばまだ俺たちが考えたほうがマシで、しかしなぜこんなことを考えなければならないのか、誰かこの|呪《のろ》いを|肩代《かたが》わりしてくれる|奴《やつ》はいないものか。 「そのような人がいたら」  古泉は肩をすくめた。 「とっくに我々の前に姿を現していることでしょうね。ゆえに我々がなんとかしなければならないのです。特にあなたのがんばりには期待しています」  だいたい何をがんばれってんだ。まずそれを教えてくれ。 「世界がフィクション化すると困るのは僕たちの論理ですからね。朝比奈さんも困るかもしれない。彼女たちには彼女たちの論理があるようですから。長門さんはよく|解《わか》りませんが、観察者は結果を受け止めるだけです。最終的に勝ち上がってきた理論を冷静に受け止めるだけですよ。たとえ地球が消し飛んだとしても、涼宮さんが残るならばそれでいいのです」  外灯の光が、|薄闇《うすやみ》の中の古泉を事務的に照らし出している。 「本当の話をお聞かせしますと、涼宮さんを中心とする何らかの理論を持っているのは我々『機関』と朝比奈さんの一派だけではありません。たくさんあるんです。水面下で我々がおこなっている様々な|抗争《こうそう》と血みどろの|殲滅《せんめつ》戦をダイジェストで教えて差し上げたいくらいですよ。同盟と裏切り、|妨害《ぼうがい》と|騙《だま》し|討《う》ち、|破壊《はかい》と|殺戮《さつりく》。各グループとも総力を挙げての生き残り合戦です」  古泉は疲れ気味の皮肉な|笑《え》みを広げる。 「我々の理論が絶対的に正しいとは僕も思いません。しかし、そうでも思わないとやっていけないというのも現状なのです。僕の初期配置は、たまたまそちら側だったのでね。どこかに|寝返《ねがえ》ることもできません。白のポーンが黒側に移ることはできないのです」  オセロか|将棋《しょうぎ》にしろ。 「あなたには|無縁《むえん》のことでしょう。涼宮さんにも。そのほうがいい。特に涼宮さんには永遠に知らないでいて欲しい。彼女の心を|曇《くも》らせるようなことはしたくないんです。僕の基準で言えば、涼宮さんは愛すべきキャラクターをお持ちです。ああ、もちろんあなたも」 「なぜ俺にそんなことを教える」 「口が|滑《すべ》ったんですよ。理由なんかありません。それに僕は|冗談《じょうだん》を言っているだけなのかもしれない。または、変な|妄想《もうそう》に取り|憑《つ》かれているだけなのかもしれない。あなたの同情を|惹《ひ》こうとしているだけなのかも。どちらにせよ、つまらない話ですよ」  確かにな。全然面白くない。 「つまらない話のついでにもう一つ。朝比奈みくるが……失礼、朝比奈さんがなぜ僕やあなたと行動を共にしているのか、その理由を考えたことがありますか。あの通り、朝比奈さんは見ていて危なっかしい美少女です。つい手助けしたくなるのも解りまず。あなたは彼女が何をしようと|肯定《こうてい》的に受け止めるでしょう」 「それのどこが悪い」  弱きを助け、強きをくじくのが正常な人間の精神的営みだ。 「彼女の役目はあなたを|籠絡《ろうらく》することです。だから朝比奈さんはあのような容姿と性格をしているのです。まさにあなたの好みそうな弱気で|可愛《かわい》らしい少女としてね。涼宮さんに少しでも言うことを聞かせることができるのは、|唯一《ゆいいつ》あなたですから。あなたを|搦《から》め|捕《と》ってしまうのが最適なのです」  俺は深海魚のように|沈黙《ちんもく》する。半年前、朝比奈さんから言われたことが思い返される。今の朝比奈さんではなく、さらなる未来から来た大人バージョンの朝比奈さんの言葉だ。手紙で俺を呼び出したその朝比奈さんは、「あたしと仲良くしないで」と言っていた。あれは彼女の立場がそう言わせたものだったのだろうか。それとも、彼女個人の心情|吐露《とろ》だったのか。  俺が黙っているのをいいことに、古泉は年老いた|縄文杉《じょうもんすぎ》が話しているような声で続けた。 「朝比奈さんがウッカリ者なのはそう演じているだけで、本心は別にあるとしたらどうですか? そのほうがあなたの共感を得やすいと判断したのでしょう。幼く見える容姿や、涼宮さんの無理難題に|唯々《いい》|諾々《だくだく》と従う|可哀想《かわいそう》な立ち位置もそうです。すべてはあなたの目を自分に向けさせるためですよ」  こいつ、本格的に正気ではなくなってきたようだな。俺は長門の|平坦《へいたん》な声を|真似《まね》る。 「冗談は聞き|飽《あ》きた」  古泉は|微細《びさい》に|微笑《ほほえ》み、いささかオーバーアクション気味に両手を広げた。 「ああ、すみません。やはり僕は冗談を|貫《つらぬ》き続ける能力に欠けていますね。|嘘《うそ》なんですよ。全部今僕が作ったトンデモ設定です。ちょっと深刻ぶったことを言いたかっただけでしてね。本気にしました? だとしたら僕の演技もなかなかですね。|舞台《ぶたい》に上がる自信が|湧《わ》いてきましたよ」  |耳障《みみざわ》りなくすくす笑いを|漏《も》らしながら、 「僕のクラスではシェイクスピア劇をやることになっているんですけどね。『ハムレット』です。僕はギルデンスターンの役を|仰《おお》せつかりまして」  知らん名だ。どうせ|脇役《わきやく》だろう。 「本来はそうだったんですけどね。|途中《とちゅう》でストッパード版に|変更《へんこう》になったんですよ。ですので僕の出番も結構増えてしまいました」  ごくろうさんと言いたいね。ハムレットにシェイクスピア版以外のものがあるとは知らなかったよ。 「涼宮さんの映画と、こちらの舞台とで僕のスケジュールはけっこう厳しいものになっているのです。プレッシャーですよ。僕が精神的に|疲《つか》れているように見えるのでしたらそのせいでしょう。その上、|閉鎖《へいさ》空間でも出たりしたらきっと|倒《たお》れ|伏《ふ》す自信がありますね。それもあって、あなたにお願いしに来たのです。どうか涼宮映画が発生源の異常現象を止めてもらえないかとね」  合理的なオチというやつか? お前は夢オチとか言っていたな。 「ハルヒの映画の内容が全部デタラメであるということをハルヒ自身に自覚させること——だったか?」 「明確に自覚させることですね。彼女は|聡明《そうめい》ですので、映画がフィクションであることくらいしっかり知っています。ただ、この通りになったらいいなと考えているだけなのです。そうはならない、ということを確実に|解《わか》ってもらう必要があるのですよ。できれば|撮影《さつえい》が|終了《しゅうりょう》される前に」  よろしくお願いします、と一礼して、古泉は|夜闇《よやみ》の中に消えていった。なんだろう。あいつは俺に責任を押しつけに来たのだろうか。自分はすでに苦労しているから次の苦労は俺が背負えと、そういうことなのか? だとしたらお|門違《かどちが》いもいいところだ。ババ|抜《ぬ》きのジョーカーじゃあるまいし、押し付け合いをするもんでもない。涼宮ハルヒは五十三番目のカードじゃないんだぜ。切り札でもオールマイティーでも、もちろんババでもない。 「まあ、しかし」  俺は|呟《つぶや》いた。  |放《ほう》っておくわけにはいかないようだった。長門はともかく、朝比奈さんも古泉もそろそろヒットポイントがデッドラインに近付いているようだ。俺が知らないだけでこの世界全体もそうなのかもしれない。 「それはちょっと困る……かな」  |面倒《めんどう》くさいな、ちくしょう。俺だってかなりアップアップなんだぜ。  俺は方策を考えた。ハルヒの|妄想《もうそう》を収めるにはどうすべきか。映画は映画、現実は現実、おのおの別物なのだと、ハッキリキッパリ解らせるにはどうすればいいのか。そんな当たり前のことを改めて|納得《なっとく》させる手だてとは何だろう。夢オチか……それ以外では?  文化祭まで、後少し。  翌日、俺はハルヒにとある一つの提案をして、すったもんだの末に了承を得た。 「はいオッケーっ!」  高らかにハルヒは|叫《さけ》んで、メガホンを打ち鳴らした。 「お疲れさーん! これで全部の撮影は終了よ! みんなよくがんばってくれたわ! 特にあたしは自分を|褒《ほ》めてやりたいわ! うん、あたしスゴイ。グレートジョブ!」  その言葉を聞いて、ウェイトレス朝比奈さんが|崩《くず》れ落ちるように座り込んだ。心底、|安堵《あんど》しているようで安堵のあまり泣きそうな顔になっている。実際、すすり泣きまで漏らしていたくらいだ。ハルヒはその|涙《なみだ》を感|極《きわ》まったものだと|解釈《かいしゃく》したようで、 「みくるちゃん、泣くのはまだ早いわよ。その涙はパルムドールかオスカーを|授与《じゅよ》されるその日まで取っておくの。みんなで幸せになりましょう!」  校舎の屋上で、文化祭を明日に|控《ひか》えた昼休みだ。もはや昼飯すらおちおち|喰《く》えないほど、時間は|切迫《せっぱく》していたのである。  ミクルとユキのラストバトルは、|突如己《とつじょおのれ》の能力を|覚醒《かくせい》させた古泉イツキの何だか解らん|御都合《ごつごう》主義パワーによってユキが宇宙の|彼方《かなた》に飛ばされることで幕を閉じた。 「これで|完壁《かんぺき》ね。すごいイイ映画が|撮《と》れたわ。ハリウッドに持ち込んだらバイヤーたちが|雪崩《なだれ》を打って飛びつくわね! まず|腕利《うでき》きのエージェントと|契約《けいやく》しないといけないわ!」  グローバルな感じで|威勢《いせい》のいいハルヒだった。こんな映像集を|誰《だれ》が見てくれるのか知らんが、引きのあるのは主演女優だけでその他スタッフは用無しだろうな。何なら俺が朝比奈さんのエージェントとして売り込みに行きたいね。小金くらいなら|稼《かせ》げそうに思う。ついでだ、ハルヒもグラビアアイドルあたりを目指してみないか? 俺が勝手に写真と|履歴《りれき》書を送ってやってもいいぞ。 「やっと終わってくれましたか」  晴れ晴れとした顔で古泉が俺に|微笑《ほほえ》みかけた。  腹の立つことだが、こいつに一番似合う表情はこういう無料スマイルのようだ。|憂鬱《ゆううつ》な古泉など見たくもないね。気味が悪いからな。 「しかし終わってみれば|一瞬《いっしゅん》だった気もしますね。楽しい時間は|経《た》つのが早いと言いますが、さて、楽しんでいたのは誰なんでしょう」  さあね。 「後のことはあなたにお任せしてもいいですか? 今や僕はクラスの|舞台《ぶたい》劇のほうで頭がいっぱいなのですよ。映画と違って、そっちではセリフをトチってやり直しというわけにはいきませんからね」  古泉はいつものニヤケ|微笑《びしょう》を|浮《う》かべ、俺の|肩《かた》を手の|甲《こう》でハタいて小声、 「もう一つ。あなたには感謝しています。我々も、僕個人もね」  それだけ言って屋上を後にした。長門はいつもの無表情で、|黙々《もくもく》と古泉の後を追うように歩き去る。  朝比奈さんはハルヒに肩を|抱《だ》かれて、|一緒《いっしょ》になって彼方に見える海の方角を指差していた。 「目指すはハリウッド、ブロックバスター!」なんてことを叫ばされている。指差すのはいいが、そっちの方角に向かって海を|渡《わた》れば着くのはオーストラリアだぜ。 「やれやれ」  俺は呟き、足元にビデオカメラを置いて座り込んだ。古泉と長門と朝比奈さんにとっては終わりで合っているだろう。だが、俺にとってはこれは終わりの始まりだ。まだやるべきことは残っている。  俺が記録した|膨大《ぼうだい》なデジタルビデオ映像の数々、このジャンクな|駄《だ》デジタル情報の集積物を何とか「映画」の|体裁《ていさい》を取るまでにしなければならないのだ。それが誰の仕事なのか、さすがに言われなくとも|解《わか》っていた。  金曜日の夕方である。部室には俺とハルヒだけがいた。|他《ほか》の三人はそれぞれ自分たちのクラスの仕事に|赴《おもむ》いている。  クランクアップしたまではいいが、|撮影《さつえい》が順調に間延びしたせいで他のことをする|余裕《よゆう》が全然ない。パソコンに取り込んだ映像を|繰《く》り返し|観《み》ることになった俺の出した結論は、やっぱり朝比奈みくるプロモーションビデオクリップにするしかないという、実にシンプルなものだった。  正直言って、とうとう最後まで俺にはハルヒが何の映画を撮っているのかピクセル単位で解らなかった。モニタに映っているウェイトレスと死神少女とニヤケ少年の三人は頭がおかしいのか? 当然のことだが、ビジュアルエフェクトをかます時間などどこを探しても余っておらず元々そんな技術もない。このまま無加工|無添加《むてんか》の|素《す》映像をそのまま垂れ流さざるをえまい。  ゴネたのはハルヒだ。 「そんな未完成なのを出展するわけにはいかないわ! なんとかしなさいよ!」  ひょっとして俺に言ってるのか。 「んなこと言ってもだな、文化祭は明日で、俺はもうイッパイイッパイだ。お前の思いつきストーリーをどうにかこうにか|繋《つな》がるように編集しただけでもう限界だっての。当分どんな映画も観たくはねえ」  しかし他人の意見を瞬殺することに|長《た》けているハルヒは、 「|徹夜《てつや》ですれば間に合うんじゃないの?」  |誰《だれ》がするんだ、とは俺は|訊《き》かなかった。ここには俺しかいないし、ハルヒの|黒檀《こくたん》のような目は一直線に俺を目指していたからだ。 「ここに|泊《と》まり込んでやればいいじゃない」  そしてハルヒは、俺が|仰天《ぎょうてん》するようなセリフを|吐《は》いた。 「あたしも手伝うから」  結論から言うとハルヒは何の役にも立たなかった。しばらくは俺の背後でうろちょろ口出ししていたが、一時間もしないうちに机に|突《つ》っ|伏《ぷ》し|寝息《ねいき》を立て始めやがったんでね。しまったな、寝顔を|撮《と》っておけばよかった。エンドクレジットの最後にその顔をアップにしてストップモーションで終えることだってできたはずなのに。  ついでに言うと俺もその後まもなく|眠《ねむ》ってしまったようだった。目を開けたら朝になってて顔半分にキーボードの|跡《あと》がついていたからな。  したがって、泊まり込みの意味はなかった。映画は未完成のままである。どうにかこうにか切り|貼《ば》りして三十分に収めたが、見るも|無惨《むざん》な駄作の出来上がりだ。映画なんぞよく知りもしない|素人《しろうと》が勢いで撮るとこうなるみたいなダダ|崩《くず》れぶりだった。いっそ開き直ってバニー朝比奈の商店街CMカットだけにすればまだしも、|強引《ごういん》なまでの編集方針で存在しないストーリーのツジツマを合わせようとしたもんだから、なおさら|破綻《はたん》に|拍車《はくしゃ》をかけてもうヒドイことになっている。結局アフレコもしてないわVFXなどどこのシーンにも|皆無《かいむ》だわ、笑いたくなるほどのゴミ映画だ。これでは谷口にも観せられない。  パソコンを窓から遠投しようかと考えて、俺は差し込む朝日に目をすがめた。不自然な姿勢で寝てたから背骨が|軋《きし》む。  先に目覚めたハルヒが俺を起こした現時刻は午前六時半。学校に泊まったのは考えてみればこれが初めてだな。 「ねえ、どうなった?」  ハルヒが俺の|肩越《かたご》しにモニタを|覗《のぞ》き込み、俺はしかたなくマウスを動かした。  再生が開始される。 「……へえっ?」  ハルヒの小さな|歓声《かんせい》を聞きながら、俺ばたまげている。作ったはずのないCGムービーが|豪勢《ごうせい》に動いてタイトルを表示した。その後から始まった『朝比奈ミクルの冒険 エピソード00』は、ストーリーはズタボロ、セリフは聞き取れず、手ブレ|満載《まんさい》、おまけに画面外の|監督《かんとく》の|怒号《どごう》までが入っていたが、ビジュアルエフェクトだけは高校生の自主映画にしてはそこそこくらいのレベルに達していた。朝比奈さんの目からレーザーが出ていたし、長門の棒からも変な色つき光線が出ていた。 「へっへー」  ハルヒも感心している。 「まあまあじゃない? ちょっと物足りないけど、あんたにしたら上出来だわ」  俺ではない。|浮上《ふじょう》した別の人格が俺の寝ている間にやったのでなければ、どうやっても俺にこんなことは出来そうもない。俺以外の誰かがやったのだ。本命・長門。|対抗《たいこう》・古泉。無印・朝比奈さん。大穴・まだ登場していない誰か。そんなとこだろう。  しばしの間、俺たちは|黙《だま》って自主製作映画の|鑑賞《かんしょう》会をおこなっていた。この小さな画面でなく、もっと|巨大《きょだい》スクリーンで観れば、また別の|感慨《かんがい》が生まれるのかもしれなかった。  ディスプレイ上の動画はラストシーンへと差し|掛《か》かっている。古泉と朝比奈さんは手を繋いで満開の桜の下を歩いていた。そのままカメラがパンして青空を映し出す。すかさずチャラけた音楽が始まって、スタッフロールが縦スクロールを開始する。  そして最後の最後にハルヒの声でナレーションが入る。  俺が考案し、どうにかハルヒに言わせることの出来たナレーション。遊びの部分も必要なのだと言って説得した、監督自らによる幕引きのセリフだ。  それはすべてをキャンセルできる|魔法《まほう》の言葉だった。 『この物語はフィクションであり実在する人物、団体、事件、その他の固有名詞や現象などとは何の関係もありません。|嘘《うそ》っぱちです。どっか似ていたとしてもそれはたまたま|偶然《ぐうぜん》です。他人のそら似です。あ、CMシーンは別よ。大森電器店とヤマツチモデルショップをよろしく! じゃんじゃん買いに行ってあげなさい。え? もう一度言うの? この物語はフィクションであり実在する人物、団体…………。ねえ、キョン。何でこんなこと言わないといけないのよ。あたりまえじゃないの』 [#改ページ]  エピローグ  文化祭が始まって、俺のやることはなくなった。  実際問題、イベントごとは準備段階が一番みんな楽しがっていると思うね。いざ始まってしまえばバタバタしているうちに時間が過ぎるだけで、あっと言う間に後片付けの時刻になる。だからその時が来るまで、俺はせいぜいブラブラさせてもらうとしよう。今日と明日くらいは俺一人が何もしなくても|誰《だれ》も文句はないだろうさ。  |唯一《ゆいいつ》文句を垂れそうなハルヒなら、|今頃《いまごろ》バニーガールとなって校門前でのビラ配りの最中だ。担任岡部や実行委員会が止めにはいるまでに、さあ、何枚|撤《ま》くことが出来るかな。  俺は部室から出て、|活況《かっきょう》を|呈《てい》し始めている校内へと歩き出した。  |懸念《けねん》していた現実の変容とやらは収まってくれたらしい。古泉がそう主張して長門が保証したからにはそうなんだろう。シャミセンが|喋《しゃべ》らなくなったことで俺はそれを知った。今や長門級の無口さだ。いまさら|叩《たた》き出すのも何だし、この際飼ってやってもいいかと俺は考えている。妹も動くぬいぐるみが出来て|嬉《うれ》しそうにしていたからな。家族には「元の飼い主は旅行先に移住することになった」とでも言いわけしておこう。  オス三毛は時たまニャアとか言っているが、俺がそう聞こえているだけで本当は別の言葉を喋っているのかもしれない。まあ、どうでもいい。  なくなったと言えば、おかしなことだが前日までよく目にしていた|奇妙《きみょう》な|恰好《かっこう》の連中が出ていそうな演目も文化祭になかった。  実行委員発行のパンフを見てもどこにもなく、それらしいことをしてそうな教室を覗いても(演劇部とか)、どこにもまったくいない。あいつらはいったい誰だったんだろうか。 「さて」  無意味な|呟《つぶや》きを|漏《も》らし、俺は校舎を練り歩いていた。  実際に学校内を異世界人がウロウロしていたとしたらどうだろう。そして、彼らがいかにも異世界ファンタジーっぽい|衣装《いしょう》を着ていたとしたら。そう、まるで長門みたいな。  だとしたら、長門はハルヒに対する目くらましのために、故意にあんな恰好をして終始歩き回っていたのではないだろうか。あたかも、こんな衣装は文化祭の見世物のためのものに過ぎないという印象をハルヒに|与《あた》えるために。  長門は|黙《もく》して語らないので|解《わか》らないが、俺の知らないところで別の|闘《たたか》いを演じていた可能性だってある。今回やけにおとなしかったしな。地球の|破滅《はめつ》を救うようなことをしてたとしても、あいつは無言を押し通すだろう。|訊《き》いたら教えてくれるかもしれん。が、どうせ言葉では伝えきれないような内容だろうし聞いたところで俺に理解できる頭があるとも思えない。  だから俺も黙っていた。特にハルヒには、ずっと黙っておくべきだろうな。  余談だが、SOS団製作の映画は|視聴覚《しちょうかく》室で上映されていた。いちおう映画研究部の作品との二本立てということになっている。ハルヒが映研にねじ込んで|無理矢理《むりやり》かつなし|崩《くず》し的にそうさせることにしてしまったわけである。プロジェクターのある教室はそこしかない。映研は最後まで難色を示していたが、ハルヒの決定に逆らえる人間はこの世界には存在しないらしく、結局押し切られてCM入りメタクソ映画を|抱《だ》き合わせ上映することになっていた。  ちなみにSOS団なる団体は文化祭実行委員的にはないことになっているので、文化祭のプログラムのどこを見ても『朝比奈ミクルの|冒険《ぼうけん》』なる演目は|記載《きさい》されていない。人気投票ベスト1はあきらめたほうがよさそうだ。その投票分はすべて映研に行くことになるだろうな。  さらに余談。ハルヒに|撮影《さつえい》を思いつかせることになった深夜放送の映画だが、調べたところゴールデングローブ賞受賞ではなく、かなり昔のカンヌ国際映画祭に出品された「だけ」という|触《ふ》れ込みのシロモノだった。あいつ、何をどう|勘違《かんちが》いしてたんだ? ためしにレンタルして|観《み》てみた。最初の三十分で|寝《ね》ちまった。そのため|面白《おもしろ》いのかつまらないのかも解らない。返しに行くまでにもう一回くらいチャレンジしてみようと思っている。  せっかくだから一年九組の演劇も|鑑賞《かんしよう》してやることにした。  古泉は終始|微笑《ほほえ》みながら演技を続け、最後にマヌケな死に|際《ぎわ》を|迎《むか》えるというわけの解らん|役柄《やくがら》で、ハルヒの映画とどっこいのアホらしさだが観客にはけっこうウケていたようだ。これは主演が古泉だったことで俺の頭に変なバイアスが出来てしまっていたからかな。古泉の演技は演技に見えず、|素《す》の古泉にしか見えなかったというのも俺にとってはマイナスだ。  カーテンコールの|拍手《はくしゅ》に|応《こた》えて出てきた古泉は、俺に向かって片目を閉じ、|薄気味悪《うすきみわる》いウインクが届く前に俺は教室を出た。ついでに長門のクラスも冷やかしてやろうとしたのだが、|占《うらな》い大会教室前にはすでに|長蛇《ちょうだ》の列が出来ている。ちらりと|覗《のぞ》いてみると、暗幕だらけの室内で暗黒衣装を身につけた女子生徒たちが何人か配置されていて、長門の無機質な白い顔もその中にあった。机に設置した|水晶《すいしょう》球に手をかざして|淡々《たんたん》と客に何かを告げている。|失《う》せ物探しくらいにしておけよ、長門。  映画と映画にまつわるゴタゴタは、「そんなものは結局、フィクションである」ってことを解らせることで何とかなったようだ。だが、この現実世界そのものをフィクションですと言って済ませることはできない。俺やハルヒや朝比奈さんや長門や古泉はちゃんとここにいて、「実はそんな|奴《やつ》いない」で終わらせるわけにはいかない。いずれ全員が散り散りバラバラになってしまうのかもしれないが、少なくとも今ここにはSOS団は存在し、団長も団員も|揃《そろ》っているんだ。俺の知っているこの世界ではそうなっているのだからな。つまり長門ふうに言えば、「俺にとっては」。  ま、何て言うかね、もしかしたらすべては|大嘘《おおうそ》なのかもしれないと思うことだってあるわけだ。ハルヒには何の力もなく、朝比奈さんと長門と古泉が|壮大《そうだい》な嘘八百を俺に見せているだけの、白い|鳩《はと》はただペンキ|塗《ぬ》り立てで、シャミセンは腹話術か内蔵マイクで、秋の桜もミラクルミクルアイ|攻撃《こうげき》も全部、仕込みに過ぎなかったのかもしれない、なんてことをな。  だとしても、だからそれがどうしたとしか思えない話でもあるけど。 「そりゃねーか」  いずれにしたってそんなの今はどうだっていいことだ。ハルヒと二人でどこかに閉じこめられて俺だけ困るよりも、みんなで困っているほうが一人頭の負担は軽減されるのは計算するまでもない。不幸中の幸いにしてSOS団団員は俺だけじゃないんだからな。  まともな人間は俺だけだが。  一年五組と同じく、単なる|休憩《きゅうけい》所になっている教室の時計が目に入った。  おっと、こうしている場合ではない。そろそろ約束の時間である。せっかくの割引券を使わない手はないだろう。どんな|衣装《いしょう》なのかも気になるし。  朝比奈さんの待つ焼きそば|喫茶店《きっさてん》に出向くため、俺は谷口と国木田との待ち合わせ場所へ急いだ。 [#改ページ]  あとがき  近所のコンビニが続けざまに店じまいしてしまったため、一番|最寄《もよ》りのコンビニに行くまで徒歩十五分くらいかかるようになってしまったのですが、その|途上《とじょう》、冬場になると|渡《わた》り|鳥《どり》たちでにぎわうことになる割と大きめの池があります。  このあいだ通りかかったところ、なぜかもう夏だというのに池に居残っているマガモの|雄《おす》が一羽、|水面《みなも》でゆらゆらたゆたっておりました。  はて、このマガモはどういう理由で仲間たちと|袂《たもと》を分かち|孤高《ここう》の道を歩んでいるのだろうかと僕は考え、彼が春先のある朝に目を覚ましたら周囲に|誰《だれ》もおらず置いてけぼりにされたことに気付いて|愕然《がくぜん》とする様を想像して人並みに心を痛めていたりもしたのですが、先日、真夜中に買い出しへと出向いたとき、このマガモ氏が池近くの川の真ん中をバシャバシャ歩きながらガァガァ鳴いているのを|目撃《もくげき》して、なんとなくホッとするものを感じました。なんだ、単に変な|奴《やつ》だったのか。  人間界に集団行動を意味もなく|嫌《きら》う人がたまにいるように、彼もまたカモ界の中でのヒネクレ者だったに違いありません。おそらく彼は一緒に北へ行こうと言う仲間たちの誘いを断り、「いや、俺はここに残る。理由は特にない」みたいなことを主張して、渡り鳥社会に据けるルーチンワークからの|逸脱《いつだつ》を|選択《せんたく》したのでしょう。なんせ真夜中にウロウロしているくらいの変わり者ですから、広い池に一羽でポツンとしている程度のことは何の気にもならないような、むしろ孤独を愛する精神の持ち主であることは容易に推察できようというものです。  と思って|密《ひそ》かに得心していたのですが、ちょろりと調べてみたところによりますと、最近は春になっても北上せずそのまま居着いてしまう渡り鳥もけっこう存在するようで、ようするに池にやってきた人間がエサを|撒《ま》いてくれるから食い|扶持《ぶち》に困らず|居心地《いごこち》がいいんだとか。何と言うか、それじゃ変な奴ではなくて面倒くさがりのズボラ野郎ではないかと勝手に落胆しつつ|幻想《げんそう》を打ち|壊《こわ》されつつこのあとがきなる文を|埋《う》めている僕の心中など、まさに当のカモ氏にはそれこそ何の関係もない話であることでしょう。  ところで話は変わりますが、次巻は「ザ・スニーカー」に|掲載中《けいさいちゅう》(二〇〇三年の夏・現在)の短編を幾つかまとめて書き下ろしか何かを付け加えたものになるという噂です。たぶん表紙タイトルは『涼宮ハルヒの退屈』ではないかと考えていますが、何かの|拍子《ひょうし》に変わるかもしれません。そもそも『涼宮ハルヒの憂鬱』なんていう三秒くらいしか考えていない題名をつけてしまったせいでシリーズタイトルがよく|解《わか》らないことになっております。まさか続くとは思いもよっていませんでした。すみません。  またまた話は変わりますが、先日長々と|麻雀《マージャン》におつきあいいただいた方々、どうもでした。少しは|容赦《ようしゃ》とか手加減とか手心……いえ何でもないです。  最後に、担当S様とイラストいとうのいぢ様、ならびにこの本の製造に|携《たずさ》わっていただけた方々と、そして読んでいただけたすべての方々|皆様《みなさま》に平身低頭しながら、それではまたいずれの機会にでも。                            谷川 流 [#改ページ] 底本:「涼宮ハルヒの溜息」角川スニーカー文庫、角川書店   平成十五年十月一日初版発行